とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

尼僧とキューピッドの弓

 多和田葉子はいいなあ。ほんわかしていて、でも芯の部分は冷静に見極めている。取材のため修道院に滞在して尼僧たちと交流する日本人作家が主人公の第一部「遠方からの客」と、日本人作家と入れ違いに修道院を出ていった尼僧院長を主人公とする第二部「翼のない矢」の二部構成。だが、前半の一部の方が圧倒的に長い。
 第一部で描かれる修道院の暮らしは、私たちが思い描くような質素で宗教的なものではなく、ベンツに乗って映画を見に行ったり、自転車で散歩をしたり、陰口や追従、派閥や噂話など、全く現代的でドロドロしたものだ。主人公は修道院で暮らす尼僧にそれぞれ日本風の名前(透明美さん、老桃さん、陰休さん、貴岸さん、火瀬さんなど)を付けるが、それがまた修道院の隠微な様子を掻き立てる。
 そして、次期の尼僧院長の選考を巡る動きや前尼僧院長の突然の駈落ちに対するそれぞれの思いなど、一通り尼僧たちとの交流を描いたところでハタと第一部が終わる。
 そして何の注釈もなく突然第二部が始まる。同じ「わたし」という指示名詞で一瞬迷うが、今度は元尼僧院長が主人公。結局彼女は駈落ちした相手と別れ、カリフォルニアまで逃げてきた。そしてホテルの一室で、これまでの半生を振り返る。男に出会うまで、そして修道院から退去するまで。性的描写もあって艶めかしくも何ともならない女性性に囚われる主人公の性。だがそれが多和田葉子らしいさっぱりとした筆致で描かれている。ほんわかとして、人間的で温かい。やっぱり多和田葉子はいいなあ。

尼僧とキューピッドの弓 (100周年書き下ろし)

尼僧とキューピッドの弓 (100周年書き下ろし)

●信仰は個人のものですが、歴史はみんなのものです。修道院は人が住んでいなければ朽ち果ててしまいますから、わたしたちの一番の使命は、歴史的文化財を保護することであって、布教ではありません。(P21)
●話と朗読と歌をうまく組み合わした無料の催し物だった。礼拝と言っても、わたしのように信仰がない人間でも反発したくなる箇所がなかった。ということは、逆に考えればひょっとして、わたしたちが何気なく出かけていく芝居や学会さえも世俗化された礼拝に過ぎず、誰もそのことに気がつかないだけなのかもしれない。(P79)
●「修道院の生活には和があるとみなさんはお考えでしょうが、」・・・「実はそこにあるのは、不調和なのです。」・・・「わたしたちは、結婚して子供を育て、その子供たちが独立した後、集まってきた成人女性です。そんな女性が十人も集まってきて共同生活を営むわけですから、そこに和があるわけがありません。」(P127)
●わたしたちの物語はいつか交わるのだろうか。それともますます離れていって、それどころか、他の人たちと話が通じたと思えたこともみんな誤解だということがだんだん分かっていって、最後にはたった一人で言葉を失って、この世から消えていくのだろうか。(P173)
●ルチアはやりたいことがはっきりしている。でも、やりたいことをやろうとするからすぐに退屈してしまうのであって、そういう目先の意志ではなく、心を空にして気持ちを集中すれば、主体も意志も必要なくなる。むしろ、自分という邪魔者があるから的に当たらないのだと考えることもできる。期待することや後悔することをやめれば、矢がすでに的中している未来が現在に重なって、その状態が永遠に続くのだ。(P193)