とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

言葉と歩く日記

 多和田葉子はこれまで日本語とドイツ語で並行して別々の内容の小説を書いてきたそうだが、今回、日本語で書いた名作「雪の練習生」をドイツ語に訳すことにした。その作業を始めた1月1日からほぼ翻訳が完了した4月15日までの間、普段書いている「普通の日記」に加えて、「言葉」に関することを書く日記を書き始めた。それが本書である。
 1月1日から日々の出来事、読書や会話から思い付いた事柄などが淡々と書き綴られている。昨年から、そろそろ多和田葉子の新作が読みたいと思って待っていたが、こういう形で新刊が出版されるとは思ってもみなかった。内容的に難しいかなと思ってしばらく敬遠していたが、読み始めると面白い。多和田葉子らしいユーモアと温もりが文章中にあふれている。
 「言葉」に関する日記なので、日本語とドイツ語の文法比較など真面目な考察もあるが、着眼が作家らしく楽しい。「閉鎖的開国、病的健康、窮屈な自由・・・」と突然湯船で言葉遊びを始めて「社会を透かし見るのに必要不可欠なレトリックだと」思ったり、「日本語でたべて日本語でしゃべった」「もっとウンコ出したくなったのだ日本語で」という伊藤比呂美の詩に共感したり、「格助詞」のある世界とない世界について考察したり・・・。前に書いたが、縦書きと横書きの話も面白い。
 そして世界中を旅行してアメリカ人と会ったり、イタリア人と朗読競演をしたり、ルクセンブルク人と語り合ったり、トルコ移民とパーティで酒を交わしたりしていると、ますます世界の中の日本語が客観的に見えるようになり、日本自体が見えてくる。
 人間は言葉で考え、言葉で支えあう一方で、言葉だけで生きるのでもない。そんな言葉の秘密、言葉の楽しさ、妖しさが本書全体に広がっている。多和田葉子に寄り添い味わう言葉の世界は豊かで心地よく、とっても楽しい。一つのことを突き詰めない日記文学って気楽でも面白い。

●何をするのにもわたしは言語を羅針盤にして進む方向を決める。言語の中には、わたし個人の脳味噌の中よりもたくさんの知恵が保存されている。しかも言語は一つではない。二つの言語が別々の主張をして口論になることもあるが、独り言をぶつぶつ言っているよりも自分の頭の中で二つの言語に対話をしてもらった方が、より広くより密度の高い答えが生まれてくるのではないかと思う。(P5)
●細かく見ていけば、スターバックスにさえ国によっていろいろ違いがあり、どんな違いにも、歴史的理由がある。まして職場や学校の人間関係、恋愛、いさかいなどのとらえ方、それについての語り方など、違いは山ほどあり、グローバル化されている分野はむしろ誰かが何かを売って儲けることのできる領域に限られているのではないか。(P54)
●分からない部分は分からないままに人生はどんどん先へ進んでいって、ある時偶然、似たような、似ていないような状況に置かれた瞬間、過去に光が当たって、「そういうことだったのか」と納得する。・・・そもそも聴衆全員にすべての文を理解されたいという強迫観念から解放されたのは、これまでいっしょに仕事したミュージシャンや演劇人たちのおかげである。理解されたいと思ってはいけない。輪郭やリズムが明確になる形で提供することが大切なのだ。(P128)
母語で得られる情報だけに頼るのは危険だ。外国語を学ぶ理由の一つはそこにあると思う。もし第二次世界大戦中に多くの日本人がアメリカの新聞と日本の新聞を読み比べていたら、戦争はもっと早く終わっていたのではないか。それはアメリカの新聞に書かれていることが正しいという意味ではない。書かれていることがあまりに違うというだけで、自分の頭で考えるしかない、何でも疑ってかかれ、という意識が生まれる。そのことが大切なんだと思う。(P214)