とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

経済成長という病

 平川氏は、内田樹と一緒に翻訳会社を立ち上げた友人である。内田樹が大学へ戻った後も、会社経営を継続し、さらに手を広げ、今に至っている。よって、本書を読んでいると、内田樹と同じことを言っている箇所もあるし、同じ感性を有していることが察しられる。実は内田樹が先か、平川氏が先か、それとも両者偶然同じことを考えていたのかわからないが、そういうふうに感じられる。
 しかし違う部分もある。それは内田樹は学者の視点で語り、平川氏は経営者の視点で語っている点である。本書は、序章、終章を除き、3章で構成される。第1章は「経済成長」をターゲットとし、第2章では経済を支える「商の倫理」を主題とする。そして第3章ではその他現在の状況に伏流するさまざまな事象を取り上げている。前2章では、平川氏らしい論理・感性がいかんなく発揮されている。
 「経済成長ってどうよ」という姿勢はもちろん同意するが、加えて、グローバリズムや多様化についての考察が興味深い。「グローバル化」と「グローバリズム」は真逆の方向を向いているという指摘。また「多様化」が「分断化」とは違うのだという主張は、まさにそのとおりである。
 第2章「溶解する商の倫理」では、会社の倫理と個人の倫理は別であることを喝破し、時間の概念、時間の効果をもって会社経営をする必要性や倫理観を提示する。そしてそれは利益で換算できないゆえに社会の仕事だと言う。
 同じ姿勢は第3章でも貫かれている。秋葉原事件について、「加害者と被害者と自分自身の間に隠れているつながりを・・・たどり直す以外に、この取り返しのつかない事態を取り返す方法はない」(P217)と言うとき、序章の「私たちもまた加担者であった」というタイトルの意味に改めて気付く。
 日々、さまざまな事件が起き、状況が発生している。これらに対して、マスコミのように、また某ニュースキャスターのように、自分をあたかも外部者としてしたり顔で語るのではなく、そのすべてを引き受けて、考え、行動していくこと。そのことを本書は語っている。そんなことはできないかもしれない。しかし、少しでもそういう心構えでいることで見えてくる世界があるということだ。そう、私たちは常に社会の一員(としての加担者)であることからは逃れられないのだから。

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)

●無理な戦争を仕掛けようが、世界の富を簒奪するシステムを遂行しようが、政治的・経済的覇権を正当化し、維持するためにはひとつの擬制(フィクション)が必要だったということかもしれない。アメリカの正義は、世界の正義であり、人類の利益に資するものだという擬制がそれである。/かれらがその擬制を補完するために掲げた、自由も、チャンスも、平和もまさにその社会の根本に、原理的に欠けているがゆえに、その欠落を隠蔽するために設えられた「正義」のように見える。「フェミニズム」は女性蔑視の裏返しであり、「自由」とはまさに先住民の犠牲の上に築かれた征服者を正当化する方便であり、「チャンス」は社会の下層に充満する不満をなだめるために設えられた決して実現しない夢を指し示すサインのようであった。/擬制の仕上げは、金こそが世界を支配する万能のパワーであり、人は金によって幸福を得ることができるという信憑であった。(P41)
グローバル化とは非対称的な世界から、対称的であり、異質ではあっても等価的な世界へ向かう歴史の自然な流れであるといえる。逆にグローバリズムは、世界を非対称に固定化することで秩序と利益を得ようとする。/グローバル化の理想とは世界の均一化ではない。異質であっても等価である社会が、お互いに交わりながら、それぞれのやり方で発展してゆくということだろう。(P78)
●ひとりひとりが、分割されて、お互いに交通することをしなくなることを称して、「多様化の時代」と言うなら、それは人間の本質的な多様化というものの価値を断念した時代という他ない。(P99)
●経営者の倫理観とは、会社の倫理であり、それはとりもなおさず、株主利益を最大化するという命令を忠実に実行するということである。所有と経営が分離された株式会社というシステムにおいては、株主は企業が倫理的であるかどうかについては、本来的には興味がなく、経営者も従業員も、自己の倫理とは別に、株主の利益に忠実であるという経済合理的な行動をいつも余儀なくされているように見える。つまり、株式会社というものを、株主主権という形で捉えている限りは、所有と経営が分離した瞬間に、倫理観もまた分断されるのである。(P117)
●人間が行動を起こすのは、正義を実現するためでもないし、悪を行うためでもない。ひとりの人間の行動の前には、いくつもの選択肢が広がっているが、行動の後に、事後的に善や悪といった形でしか判定されざるを得ないということである。(P168)