とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の成熟論

 いつものように、さまざまな媒体に寄稿した文章を集めたコンピレーション本である。多くは、いつか読んだような内容である。でも、読みやすいし、まあ面白い。ウクライナ紛争に対する見方には賛成しないけどね。

 でも、中でも興味深く読んだのは、「セックスワーク」という論考。もう20年も前に寄稿した「岩波 応用倫理学講座」に所収された論文だが、売春の是非と、売春婦の人権は分けて考えるべき、というのは全くそのとおり。また、「新潮45」に寄稿した「『危機』について」という論考も興味深い。この中に、「ランティエ」に関して説明する部分がある。

 「年金生活者」のことだが、20世紀初頭までのヨーロッパの芸術や文化、科学などを支えた「高等遊民」こそ、この「ランティエ」という存在。そんな彼らが、第一次次世界大戦の勃発とともに貨幣価値の急激な下落が置き、その地位を失ってしまった。それこそが「危機の時代」の始まりではないか、というもの。その成否はともかく、「ランティエ」と呼ばれる人々がいたということが興味を惹いた。

 でもこれも10年以上も前の論文だ。昔の論考により関心を掻き立てられるというのはどう考えたらいいのだろうか。僕の問題? それとも内田樹のせい? まあこれからも、内田樹には、独特な視座からの考察を披露してほしい。楽しく読んでいけたらいいなと思う。

 

 

○あまりまっとうじゃない人たちはテレビの画面やYou Tubeの配信動画でげらげら笑っている。彼らは世の中の「きれいごと」や「建前」を笑い飛ばして、それに代わって、剥き出しの「力」(権力やお金や名声)を求めるのが人間の本性であるというかなり幼稚な人間観を繰り返し発信している。…この「成熟への意欲を殺ぐ言説」に対抗して、僕たちは「大人であることは楽しい」ということをあらゆる機会を通じて子どもたちに伝えなければならない。(P6)

○冷戦後になると、「国民国家が基本的な政治単位であるべきだ」という信念に陰りが生じた。…経済のグローバル化がこの趨勢に拍車をかけた。…「祖国の運命と自分の個人的運命とを切り離すことに成功した人たち」がそれにもかかわらず国民国家においても指導部を形成した。権力者に取り入り、国政に介入して、国家の公共財を私物化するようになった。…こうしてどこの国民国家でも、国民としての一体感がじわじわと崩れ始めた。それが「国民国家液状化」と呼ばれる現象である。(P25)

○選挙に勝った政党は政策が正しいから勝ったのではない。「勝ちそうな政党」だったから勝ったのである。…有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている。その「馬」がいったいどこに国民を連れてゆくことになるかには彼らはあまり興味がない。自分が投票した政党が勝って、政権の座を占めると…まるで自分がこの国の支配者であるような気分になれる。…その幻想的な多幸感と全能感を求めて、人々は「権力者にすり寄る」のである。(P98)

○「売春を原理的に肯定すること」と…「現に売春をしている人間の人権を擁護すること」は水準の違う問題だから別々に扱えばよい…。例えば、「囚人の人権を守る」ということは「犯罪を肯定する」こととは水準の違う問題である。…人権は人権、犯罪は犯罪である。それと同じように、「売春は犯罪だが、売春婦の人権は適切に擁護されねばならない」という立論はあるうると私は思っている。(P236)

○身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。/からだには固有の尊厳があると私は考えている。…売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。(P247)