あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」を巡る騒ぎがなかなか収まらない。だが、河村市長や大阪府の吉村知事らが騒ぎ出した時とはだいぶ様相が変わっている。彼らは最初の火を付けただけで最近は静かだ。代わって騒いでいるのは表現者の側。「表現の不自由展・その後」を中止したことに対して非難し、再開を求めている。15日には大学教授や弁護士らが大村知事等に対して署名を提出した。こうした状況を受けて、芸術監督の津田大介氏が謝罪をし、愛知県では検証委員会を設置することとなった。
私は「『表現の不自由展・その後』で展示されたもの」で書いたとおり、「表現の不自由展・その後」で展示されたのは、実は河村市長などの「表現の自由を阻害しようとする者」たちの言動ではなかったかと思っているが、その後の展開は、「表現の自由を求める者」たちの言動もまた同時に「展示」される状況となった。これはたぶん津田監督らにとっては予定外の展示物ではなかったか。しかしそのために、本来、展示され、明らかにされるはずだった日本の「表現の不自由」な状況が、かえって不透明になってしまった。これは「表現の自由を求める者」たちにとっても不利益なことではないのか。
「表現の不自由展・その後」への出展者や実行委員会が憤るのはわからないではないが、憤る相手はトリエンナーレの主催者ではなく、「表現の自由を阻害しようとする者」であるべきだ。15日の署名は大村知事だけでなく、河村市長に対しても提出されたというが、「表現の自由を阻害しようとする者」に対してこそ、しっかりと批判すべきではないか。結局、言いやすい相手に対してだけ非難しているように見える。
そして、トリエンナーレの他の会場に出展している海外作家からも展示辞退が相次いでいるという。このような状況は次回以降の「あいちトリエンナーレ」の開催にとって大きな痛手となる。私は「あいちトリエンナーレ」をこれまで、初回から3年前に開催された第3回まですべて鑑賞してきた。特に前回「あいちトリエンナーレ2016」は、建築評論家の五十嵐太郎氏が芸術監督を務めたこともあり、建築系の展示が多く、大いに楽しんだ。こうした芸術監督によって内容が変わるテーマ性に加えて、多くの海外作家が出展することも「あいちトリエンナーレ」の大きな魅力の一つだろう。今回、ジャーナリストの津田大介氏が芸術監督になるということを最初に聞いた際には、どんな展示になるのだろうかと思ったが、確かに相当にジャーナリスティックなトリエンナーレになった。そのこと自体はいいと思うが、そうした状況に、出展した作家やその他の芸術家、芸術の専門家たちが付いていけていない。
彼らは日頃、自らの芸術作品はどこで展示をしているのだろうか。たぶん民間のギャラリーなどではないか。そこで今回、彼らは展示中止を決めた主催者に抗議をしてしまったが、実はたとえ3日間でも展示をしてくれたトリエンナーレ主催者に対してはそれ相応の感謝をしてもいいはずだ。面白いニュースが飛び込んできた。スペイン実業家が「平和の少女像」を購入した。来年には私設の「フリーダム・ミュージアム」を開設し、他の「表現の不自由」な作品とともに展示するという。スペインと言えばピカソの母国。あの「ゲルニカ」も大いなる体制批判の作品である。「表現の不自由」な作品が展示される国としてふさわしい。バルセロナの観光価値はさらに高まることだろう。
そしてそれらの「表現の不自由」な作品の展示を認めない国、ニッポン。今回、主催者に抗議をしている「表現の自由を求める者」たちも、この行動が日本の「表現の不自由」度にどう影響するのか、よく熟慮してもらいたい。個人的には今回の騒動が、次回「あいちトリエンナーレ」の開催を困難にしないかと大いに危惧している。