とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

スポーツを通じて社会の矛盾や酷さを表す東京五輪は「表現の不自由展」に通じる

 開催直前になってのミュージシャンの辞任。選手村からの多数の感染・濃厚接触者発生の報告。財界トップの開会式への出席見送り。来日する外国首脳も前回リオ大会に比べ半減だそうだ。

 1996年、オリンピック100周年を機に、オリンピック憲章が大幅に書き改められた。その後はほぼ毎年のようにオリンピック憲章が改定されているが、根本原理に大きな変化はない。「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学」であり、「スポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」であり、「その生き方は努力する喜び、良い規範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」と1項目に書かれている。また、「オリンピズムの目的は人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」だそうだ。

 さらに4項目目には「スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる」とある。

 これまでのオリンピックでは、オリンピック憲章の存在は知っていたが、その内容まで確認することはなかった。だがここまで不祥事が連なると、そもそもオリンピックってどんな目的で開催されるのかと確認したくなった。もちろん美辞麗句に溢れているだろうことは想像できた。憲章で書かれていることと、東京五輪委員会やバッハ会長らの言動が一致してないじゃないかと批判することも簡単だ。こうした理念的な原則は、多くの場合、高く理想的に掲げられ、しかし内実はそれに遠く届かない。届かないからこそ、高く掲げられ、時に読み返して反省する。そのためにあるのだろう。

 それにしても、いやだからこそ、東京五輪ではこれらの根本原則を今一度確認したくなった。果たして東京五輪は「良い規範である」だろうか、「社会的な責任」を果たすものとなっているだろうか、「普遍的で根本的な倫理規範」に反していないだろうか。そして「平和な社会の推進」と「人類の調和」に資する祭典となっているだろうか。「人権」「友情、連帯、フェアプレー」「相互理解」。これらの言葉が恥ずかしくない大会であるだろうか。

 一昨年のあいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」が開催され、開催に反対する人々の暴力等により開幕早々に中止を余儀なくされた。この一連の騒動を見て、「『表現の不自由展・その後』で展示されたもの」は「いかに今の日本が『表現の不自由』な状況にあるのか」その「「『表現の不自由度』を映し出す企画」なのではないかと書いた。今年になって、名古屋で、そして大阪で「表現の不自由展・その後」が開催されたが、どちらも予定した期間開催することはできず、2年経ってもなお日本では「表現の不自由度」は高いままであることが示された。それでも今後もまた「表現の不自由展・その後」の開催にトライすることは意味あることかもしれない。

 オリンピックも同様かもしれない。東京五輪のドタバタで、我々の社会は未だ、オリンピック憲章で示された理想や理念とは程遠い状況にあるということがよく示された。次の北京五輪ではどうだろうか。パリ五輪ではどうだろうか。これまでこうした理念は、華やかな大会の陰に隠され、大きく取り上げられることはなかった。東京五輪の最大の功績は、華やかなスポーツの祭典に隠された社会の矛盾や酷さを日本国民に知らしめたことにあるのかもしれない。それこそが東京五輪のレガシー。

 東京五輪は、新型コロナの感染が拡大する中、これから開催される。2週間の間には何が起きるだろうか。どんな社会の矛盾や酷さを露呈してくれるのか。まさか「表現の不自由展・その後」のように、途中で中止ということはないだろう。いや、あるかな? それも含めて、何かと楽しみな東京五輪だ。