とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

この国のかたちを見つめ直す

 加藤陽子と言えば、一昨年の菅政権による学術会議の新会員候補から除外された6名のうちの一人ということで一躍有名になった。私はと言えば、岩波新書の「シリーズ日本近現代史(5) 満州事変から日中戦争へ」を読んだ程度。その時の感想は、学術的だが当たり障りない表現で記された本という印象だった。

 本書に収められているのは、毎日新聞で2010年4月からの2年間と2020年4月から連載中のコラムが中心で、他にいくつかの書評とインタビュー記事が掲載されている。昨年の夏に発行されているから、当然、学術会議問題の後に執筆されたコラムも収録されているが、冷静かつ論理的にこの問題を取り上げ、論評しているのは見事。現在、他の5人は、学術会議の連携会員または特任連携会員に就任し、活動しているそうだが、加藤氏はそれも断ったとのこと。その理由も見事だ。

 取り上げられているテーマは、「国家」「震災」「天皇制」「戦争の記憶」「外交」、そして最終章は各テーマに関わる13冊の書評が収められている。これらを読むと、確かに菅政権、というより安倍晋三が、加藤氏の学術会議会員就任を拒否した理由がよくわかる。すなわち、歴史にファンタジーを求める安部氏らにとって、ただ学術的に歴史研究をされるのは迷惑ということだろう。加えて、公文書の破棄や秘匿等に対する批判も目に付く。歴史学の立場からすれば当然のスタンスだ。

 だが、もっとも興味を惹いたのは、ジェンダー問題に対するインタビュー記事。加藤氏は私よりわずかに年下だが、彼女が話す女性差別の現状、そしてそうした環境下で歴史学研究に没頭した姿勢や結婚・子育てなどの日常や思いもよく理解できる。慷慨するでもなく、淡々と語る姿勢は好ましい。

 書評を読むといずれの本も読みたくなる。また、加藤氏のその他の本も読みたくなってくる。「この国のかたち」は司馬遼太郎をオマージュしたタイトルだが、しっかりと「この国のかたち」を見定めることから未来は繋がっていく。ファンタジーの先にはリアルな世界は繋がらない。歴史学の価値はそこにある。しっかりした「この国のかたち」を学びたいと思う。

 

 

○「学問の自由は、これを保障する」と規定した憲法第23条は、いかにして生まれたのか。/実のところ、本条は日本側の熱意によって磨かれた条文だった。…第23条は生まれながらの人一般の学ぶ権利を保障したものではない。それは思想・良心の自由(第19条)、表現の自由(第21条)で保障されうるからだ。第23条は専門領域の自律性、公的学術機関による人選の自律を保障するために置かれた。学術会議問題の根幹には、たしかに学問の自由の問題があるのだ。(P26)

○名簿から除外された6人全員が第1部の人文・社会科学を専門とする。安倍晋三政権下で成立した新法は、旧法が科学技術振興の対象から外していた人文・社会科学を対象に含めたのだ。…現状は、日本の科学力の低下、データ囲い込みの激化、気候変動を受けて、「人文・社会科学の知も融合した総合知」を掲げざるをえない緊急事態である。…このたび国は、科学技術政策を刷新したが、最も大切なのは、基礎研究の一層の推進であり、学問の自律的成長以外にない。(P30)

○適正な政策決定は、それを支えるに足る十分な記録が決定の場に迅速に提供されて初めて可能となる。…それが戦後長く見られなかったということは、中央と地方の間で権限と予算を配分する力、国民の利益と義務を分配する力、すなわち政治が日本にはなかったことを意味している。/記録を大切にしない風土の根幹には政治の不在がある。(P99)

○本書でウルリッヒ・ベックは…ヘーゲル的シナリオと…カール・シュミット的シナリオの二つを描いた。前者は…カタストロフィが人類にとって不可欠ならば、人類の利害は共通したものとなるから、新たな責任の共同体が形成されてゆくだろうというもの。一方、後者は、管理不能なリスクを管理しうると人々に信じ込ませるような政治的怪物が登場し、人々が全権委任してしまう未来となる。現在の日本と世界は、この二つのシナリオの間で彷徨っているように見える。(P235)

日本国憲法は、昭和戦前期までの日本の「近代の歴史」を支えていた国家の基本秩序、統治権の総攬者である天皇を戴く政治体制(国体)が、第二次世界大戦に参戦した連合国の物理的な軍事力によって書き換えられたことで生まれた。戦争の究極の目的は、相手国の社会の基本秩序を書き換えることにある。(P254)