とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

遠慮深いうたた寝

 エッセイ集である。神戸新聞で「遠慮深いうたた寝」のタイトルで2010年以降連載し続けているエッセイ。「物語」や創作に関するエッセイ。書評など、他の作家や作品に関するエッセイ。そしてその他のエッセイ。それらが順序良く収められている。

 そして各エッセイはどれも短い。新聞掲載のエッセイは2ページほど。その他のエッセイも長いものでも5~6ページほどで、簡潔にまとめられている。もちろん短くまとめられるというのは筆力でもあるだろうが、深堀しない筆者の遠慮深さや慎ましやかな性格もあるのかもしれない。

 あまり謙遜されるのは逆に鼻につくこともあるが、それが筆者の持ち味でもあり、私が読み続ける理由でもある。締め切りに追われ、小説を書き進めるのも大変だろうが、でもこれからも奔放で清々しい想像力を飛翔させてほしい。また新作を期待したい。

 

 

○この世は数えきれないほどの、やってはいけない事柄によって満たされている…。こんなにも禁止だらけの世の中を、今自分が生きていると考えただけでぞっとしてくる。「お前は大丈夫なのか?」と自分に問いたださずにはいられなくなる。/これまで一応事もなくやってこられたのはただの偶然で、油断をすればすぐさま私も、新聞の片隅に載るような悪事を働いてしまうかもしれない。…私のようにぼんやりとした人間が、どうしてこの地雷だらけの世界を無事に乗り切れるだろうか。(P12)

○ついさっき仕舞ったはずの場所にないのであれば、目に見えないくらいの小人か、気配を消した妖精の仕業と考えるのが妥当である。…家に帰って花束を解いてみると、中から切符が出てきた。花の瑞々しさを吸い取って、いい香りのする切符になっていた。小人か妖精のために役立ったのなら、それもよかろう、と私は思った。(P24)

○世の中の、すべてのことはいつか終わる。恋人との楽しいデートも、夫婦喧嘩も、つまらない仕事も、病気の苦しみも、本人の努力とはまた別のところで、何ものかの差配により、終わりの時が告げられる。/だから、別に怖がる必要などないのだ。どっしり構えておけばいい。終わりが来るのに最も適した時を、示してくれる何ものかが、この世には存在している。その人に任せておこう。そう思えば、いつか必ず尽きる寿命も、多少は余裕を持って受け入れられる気がする。(P92)

○私の空想はどこまでも広がっていった。…図鑑を開けばいつもそこに物語があった。写真の脇に添えられた一行の説明文から、壮大なお話を作り上げることができた。(P171)

家なき子や小公女やハイジやネロたちは、本の中だけでしか出会えない人たちだと信じ込んでいたけれど、もし彼らが私のいる場所とつながり合った、すぐ向こう側の世界の住人ならば、きっと私もトムと同じようにドアノブを回せるはずだ。なぜか根拠もなく、そんな自信を持った。/つまりその時私は、既に本に書かれているお話を読むのではなく、自分で物語を発見しようとしていたのだと思う。(P173)