とんま天狗は雲の上

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歴史人口学で見た日本(増補版)

 本書は2001年に出版されたものの増補版である。筆者の速水融は2019年に90歳で亡くなったが、日本における「歴史人口学」はまさに彼が導入し、発展させてきた学問である。「教区簿冊」を研究することで「歴史人口学」を創設したルイ・アンリの方法に倣い、速水氏は「宗門改帳」を対象に研究を始めた。このルイ・アンリの方法をイギリスで大々的に取り入れて大きな成果を挙げたのが、エマニュエル・トッドの指導教官であるピーター・ラスレット。そして、エマニュエル・トッドが「家族システムの起源」を執筆するにあたり、日本の章は速水氏の仕事を大いに活用している。そして、増補版のまえがきでは、磯田道史との繋がりも記述されている。実に速水融氏は偉大な歴史家なのであった。

 本書は、当時既に70歳を超えた速水氏が、歴史人口学に出会った顛末から、研究成果の披露、そして今後の課題まで、総括的に綴っている。専門書ではないので読みやすく、わかりやすい。「歴史人口学」は「上からの歴史」ではなく「下からの歴史」なのだと言う。もしくは「ミクロの歴史」。だが、「宗門改帳」を分析することで何が見えてくるか。実はそこが面白い。

 速水氏は自ら収集し、分析したデータの中から、例えば「鎖国令は、中華世界秩序から抜け出して独立を企図したのではないか」とか、日本において産業革命とは真逆の「労働集約・資本節約」型農業生産が進展していったことを「勤勉革命」と呼んだり、また江戸時代、都市部では移入する人口が蟻地獄のように消えていき人口増が起きていないのに対して、地方でこそ人口が増大している状況こそが明治維新勃発の一要因ではないかと指摘するなど、独創的な考察をしている。

 「宗門改帳」に注目し、「歴史人口学」を始めたこと以上に、そうした柔軟な発想こそが速水氏の魅力ではなかったかと思う。そういえば、エマニュエル・トッドも、地道な研究以上に、その独特な視点からの批評や世界観が注目をされている。速水氏が生きていれば、日本のトッドと呼ばれただろうか。いや、その役割は磯田氏にこそ期待すべきか。何はともあれ、実に楽しい本であった。地道な研究の上に築いた考察こそが重要だということがよくわかる。

 

 

鎖国令というのは、ヨーロッパあるいはキリスト教を拒否することを楯にしながら、じつは中華世界秩序から抜け出して独立することを意味したのではないだろうか。さらに一歩進めていえば、日本を中心におく世界秩序をつくったことを意味している。/だからこそ、17世紀末になると日本は…自分の国の暦は自分でつくるようになる。…鎖国令とともに始まった宗門改めの制度も…自立した日本の…基本方針として行われたと…言っていいのではないかと思う。(P56)

○いままでの歴史が、どちらかというとマクロ的な日本全体とか、あるいは上からの歴史(命令や制度を中心に見てきたもの)を扱っていたのとはまったく逆方向の、名もない庶民の生涯に見られるいろいろな出来事とか…人の生死という日常事を扱うもので、それらを分析して出てくる結果は、トップダウンの歴史ではけっして見えない、典型的なボトムアップ、下からの歴史ということになる(P58)

○家畜は別名キャピタル、つまり資本である。経済学では生産要素としてふつう、資本と労働を考える。…資本集約・労働節約というのが近代の産業革命、あるいは農業革命である。けれども日本の場合は…労働集約・資本節約…という方向で生産量が増大することになる。…農民の…対応はどうであったのかというと…日本人はそこに労働は美徳であるという道徳を持ち込んでしまった。…日本では、一生懸命働いて生産量が上がった場合、…いくばくかは働いている農民のところへ還元された。…生活水準が上がるなら…激しく働くようになってもいいということになる。…私はこれを勤勉革命と呼んだ。(P107)

○われわれはなんとなく、江戸、京都、大阪、名古屋では都市人口が多く…経済が発達し人口が増えていくというふうに思いがちだが、じつはそうではない。江戸時代に人口が増えたのは…北陸、西日本など…大都市のなかったところである。人口が増えた西日本には長州藩薩摩藩があった。その地域が明治維新の主導力になっていったということは…人口増大による圧力があったからかもしれない。…増えた人口は…自分のもっているものを生かす場所がない。それが不満ということになって、明治維新というところにまで来たのではないか(P134)

○「西南日本型」の人口・家族構造は、東シナ海沿岸に共通するものである可能性がきわめて高い。…また「東北日本型」にしても…アイヌ民族と共通していた可能性が高い。…「中央日本型」も、中国・朝鮮から渡来した人たちと混じりあい、あるいは伝来した制度・宗教・文字を用い、それらを規範として国家統一を行った。したがって、日本には、極端にいえば文化的に独自なものはなく、外来のものを模倣し、融合させたのである。逆に、こういった模倣・融合能力こそ、日本を特徴づけるものだった、といえないだろうか。(P208)