とんま天狗は雲の上

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最後の審判

 岡田温司は継続的に、中公新書岩波新書から、教会の壁画や絵画などからキリスト教を考察する本を出版している。今回のテーマは「最後の審判」。その審判の時には、死者も含めて、すべての人間は(終末の時にはすべての人間は死ぬ、という理解もある)、天国と地獄に振り分けられる。それまでの間、死者は無意識の中にいるかと思っていたが、そうではなく「煉獄=ハデス」において、じっとその時を待つ(意識があるということか)、と言う。しかも、ただ待つのではなく、死後すぐに一定の振り分けがあり、そこでの責め苦や拷問に耐えながら、かつその後、最後の審判が下る。という考え方が、中世以降、一般的になっていく。

 また、第Ⅱ章「裁きと正義」では、「正義」に基づく苛烈な「裁き」だけでなく、「慈悲」を願う人々の姿が描かれる。聖母マリアのイメージである。また第Ⅲ章「罪と罰」では、異端者オリゲネスの言明を紹介し、悔い改めにより救済される可能性について論じる。だが、あくまでそれは異端であり、キリスト教の正統は、苛烈にして正義による裁きにある。

 第Ⅳ章では「復活」を取り上げるが、さてそこでは、どういう姿で復活するかを検討する。ただし、それはあくまでも、外伝も含めた聖書や絵画、壁画、文献などの解釈から検討するのであって、けっして筆者の見解を披露するのではない。いや、多少は信者でない者としての感想を挟むこともあるが、あくまでも慎ましく、研究者の目線を常にわきまえる。

 だからわかりにくいこともあるし、でもたぶん中立的だとも思う。われわれは死後の世界をどうあってほしいのだろう。死後にも世界がある、という考え方こそが、科学的でもないし、途方もない妄想のようにも感じるのだが。日本でももうすぐみんなが神社へ押しかける初詣がやって来る。

 

 

○そもそも本来、死者が復活して天国に上るかそれとも地獄に堕ちるかの決定は、最後の審判の時にゆだねられるとされるから、死後すぐに天国か地獄のどちらかに振り分けられるというわけではない。つまり死者は、週末に再びこの世に降りてくるキリストによって下される審判の時を、期待と不安を抱えながらじっとどこかで待っているわけだ。…新約聖書ではその場所をギリシア語で「ハデス」と呼んでいる。(P2)

○ラザロのたとえ話によると、終末に集団で一気に審判が下されるよりも前に、すでに個々人の死の瞬間において、一定の振り分けがなかったわけではないということになる。…さらに使徒ペテロの次の言葉からも…死者の霊魂は生前のおこないに応じて、最後の審判よりも前に何らかの報いを受けていることになるだろう。さらに時代が下ると、むしろこの考え方のほうが支持されていったように思われる。(P9)

○「裁き」には「正義」のみならず「慈しみ」がともなわなければならない。…とはいえ、この単語にはまた、死刑執行人が相手にとどめの一発を刺す「短剣」という意味もある…つまり、断末魔の苦しみをたとえわずかでも短くするのが、「ミゼリコルディア」という名の「慈悲」にして「短剣」なのだが、その苦しみは「正義」の名のもとに課せられたものなのだ。(P86)

○神の正義は神の怒りとして行使されるが、そこに慈悲の入り込む余地はほとんどない。このように、裁きのイメージと強く結びつく神の「正義」にたいして、中世の人々が救いや赦し、つまり「慈しみ(慈悲)」の願いを積極的に託してきたのは、むしろ聖母マリアだったように思われる。…イエスと違って彼女には直接手を下して魂を救い出す力は与えられていない。あくまでも神への「執り成し」が彼女の役目なのだ。(P93)

○聖書によると人間は根本的に二つのタイプに分けられるようだ。すなわち、「神に従う人」と「神に逆らう者」である。そしてこれが…最後の審判の時に、天国に迎えられる者と地獄に落とされる者との違いとなり、「永遠の命」にあずかれる者と「永遠の罰」に苛まれる者との境目にもなる。神の「正しい裁き」は、各人の生前の所業に応じる報いというかたちでなされる。…その一方で、とりわけ中世以降、天国と地獄のあいだに中間地帯として煉獄なるものが想定され、罪人でも一定期間の浄めを受ければ天国に救済されることもあり得ると説かれてきた(P120)

○オリゲネスが今日もなお、信者でないわたしたちの心を打つとすれば、それは、彼が最初から人間を「神に従う者」と「神に逆らう者」のどちらかに決めつけてかからないからである。…つまり、(悪に)耐える人とそうでない人がいるのではなくて、誰にでも(悪に)「耐えることができる」という可能性が備わっているということである。それゆえ、「この可能性をいかに用いるか」が問題なのだ。それはまた自由意志の用い方の問題でもあるだろう。(P135)