とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

中国化する日本

 抱腹絶倒、チョー面白い。今年これまで読んだ中で一番に面白い一冊。それでいて最新の歴史学を踏まえた真面目(?)な社会論なのだからスゴイ。こんな先生が我が地元の愛知県立大学にいるなんて。しかも未だ弱冠32歳。機会があればぜひ一度講演をお聞きしたい。できることなら講義を聞いてみたい。
 基本的なスタンスは簡単明瞭。中国の宋朝が世界で最も早く近世に入った時代であり、世界は宋朝中国の近世を目指して、近づいては離れ、離れては近づきつつ、そしていよいよ全世界の「中国化」が近づきつつある。
 そんな中で日本は平安末期、宋朝中国の「近世」に最接近するチャンスを得たにもかかわらず、源平合戦に平家が負けたことにより、中世に舞い戻ってしまった。その後は、長く江戸時代が続いたことで中世から抜け出せず、明治初期にいったん中国化を目指した時期があったものの「再江戸時代化」勢力が上回り、昭和日本という「美しい江戸時代」「世界で最も成功した社会主義国家」を形成してしまう。
 しかしさすがにもう近世化への波に抗しきれなくなってきた。小泉政権に始まる「中国化」の時期を経て、東日本大震災でいよいよ「日本の中国化」は避けられない情勢になってきた。それは「グローバリズム」や「新自由主義」と呼ばれるものに近いけれど、個人を社会が支えてくれる時代は終わった。これからは個人として大海原を生きていかなければならない。その時に頼りになるのは、個人能力であり、親族であり、友人であり、それらの個人的に構築したネットワークである。
 ならばいっそのこと、憲法第9条をベースにした世界平和思想、大東亜共栄圏思想という日本産中華思想で中国や世界を中国化する方がよい、などとほとんど妄想的かつ真面目に有効そうな発想が出てくるところがチョー面白い。もちろんその時日本は中国化しているので、日本は日本民族のものではないのだが・・・。
 平安末期から現在に至るまでの日本の歴史を、「中国化」と「江戸時代化」という二つの極で、真面目にかつ面白く、半分おふざけ気味に説明していく。井澤元彦なんて所詮妄想家。やはり学問はこうでなくっちゃ。そんな抱腹絶倒、でも本当は心の芯の部分で覚めてくる、そんな好著、いや妖著。とにかく面白く、かつ怖い「中国化する日本」のお話です。

宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃された結果、移動の自由・営業の自由、職業選択の自由が、広く江湖に行きわたることになります。科挙という形で、官吏すなわち支配者層へとなり上がる門戸も開放される。科挙は男性であればおおむね誰でも受験できましたので、(男女間の差別を別にすれば)「自由」と「機会の平等」はほとんど達成されたとすらいえるでしょう。(P34)
●同じく「武士」とされるなかでも、隣国宋朝の制度を導入することで、古代日本とは異なる本当に新しいことをやろうと試みた平家(ファースト・サムライ)は、実は敗北してしまっていた。/むしろ、従来型の農業中心の荘園制社会を維持しようとした守旧派勢力である源氏(ワースト・サムライ?)の方が勝ってしまって始まったのが、日本の中世だったのです。(P46)
バラク・オバマ氏の演説の巧みさが、「差別されてきた黒人である自分でも大統領になれた事実こそが、アメリカというこの国の輝かしい伝統であり希望の証」という形で、放っておけば自分と対立しそうな人々をも、彼らが奉じる建国の理念に訴えることで味方に取り込んでいく点にあることは、よく知られています。/実は、「少数民族による多数派統治」というディレンマを抱え込んだ清朝の擁正帝も、・・・まさしく同じことをやりました。主流派である漢民族の人々が掲げてきた理念が全世界に通用する普遍的なものであるからこそ、それを正しく身につけた人物であれば、天子の座についてもよろしいのであって、「夷狄」が皇帝になることは中華帝国の恥辱ではなく、むしろ進歩を示すことなのだと、アピールしたのです。/・・・この、相手の信じている理念の普遍性をまず認め、だったら他所から来たわれわれにも資格があるでしょうという形で権力の正統性を作り出すやり方が、宋朝科挙制度と朱子学イデオロギーが生まれて以降の、かの国の王権のエッセンスです。言い方を変えると、世界中どこの誰にでもユーザーになってもらえるような極めて汎用性の高いシステムとして、近世中国の社会制度は設計され、そのことを中国の人々は「ナショナル・プライド」としてきたと見ることもできます。(P70)
平安時代まで、荘園やイエといった「封建制」の特権に与れたのは貴族だけで、鎌倉時代でそこに武士が加わる。さらに江戸時代になると、イネの普及によって百姓もイエを持つようになりますが、そこから排除された次三男の不満が、明治維新を起こす。ところが大正以降は重化学工業化のおかげで、彼らにもイエを持たせてやれるようになり、昭和にかけて企業の長期雇用と低い離婚率とによって、みんなが「封建制」の恩恵を受けられるようになる……といっても実のところ、フリーターやシングル女性は例外ですが、彼らについては「自己責任」ということにして、面倒はみない。/―おおむねかような形で維持されてきた、「長い江戸時代」のしくみがとうとう行き詰まり、今度こそ日本社会も「中国化」する番が、ついに来てしまった。(P261)
●近世以降の中国社会の魅力は、アナーキーなまでに野放図な経済社会の自由さであり、逆にその欠陥は、その自由を統御する「正しい思想の原理」を一種類しか認めないことです。一方で、日本的な近世社会の無思想性は、これに比した際にはそれなりに多様な存在を包摂できる柔軟性ともいえるものであり、逆にそのデメリットは、地域や職業の面での各人の「正しい居場所」を、一箇所に固定してしまう点でしょう。/この二種類の社会構成を、強引にいっしょくたに混ぜてしまって、「属するべき組織も奉ずるべき信念も世界にただ一種類の正解しかない」という両者のわるいとこどりのブロンを実らせてしまった結果が、昭和日本の軍国主義や、共産中国の文化大革命や、今日までの北朝鮮がもたらした巨大な人的損失ではなかったかと思うのです。(P284)