最近もっぱら古代歴史づいている。それも大化の改新前後。「皇室がなくなる日」、「キトラ・ボックス」、そして本書。「皇室がなくなる日」は法学的見地から、「キトラ・ボックス」は小説として、そして本書は建築学の分野から。とは言っても、必ずしも建築史として学問的に研究するのではなく、建築的知識をベースに古代史を推理していくといった趣旨。そして非常に面白い。
推古天皇は蘇我馬子の傀儡だった。聖徳太子もまた、蘇我馬子政権における外交大臣といった位置付けだった。蘇我家から大王家に権力を奪還しようした舒明天皇。大海人皇子(天武天皇)は実は中大兄皇子(天智天皇)とは異父兄弟だったという仮説を置いて読み解く壬申の乱。そして天武天皇の正統化のための皇祖神信仰と、その上に築かれた持統天皇による天孫降臨、アマテラス神話。もちろんどこまでが真実かはわからないが、正解がないだけに想像を馳せるには魅力的だ。
そして、伊勢神宮の構造に大陸文化の要素を見たり、四天王寺や法隆寺の地政的な意味を考えたりと、建築的・都市的視点からの考察も興味深い。生前退位法案の特例法案が審議中だが、天皇制の起源を考察するのは面白い。武澤秀一の他の著作も読んでみようかな。
○国家的見地から四天王寺を見たとき、もっとも重要なポイントは、港をもつ難波に立地しているということです。そこは大陸に通じる海上ルートの始点であり、かつ終点。いわば外界に対する国家の“顔”であり、唯一の国際玄関口でした。・・・港のある難波が国家の顔であり、物や人、情報を取り入れる“口”だとしたら、都である飛鳥は国家の“心臓”でした。そこに馬子はいち早く飛鳥寺を建立した。そして斑鳩は、難波と飛鳥をむすぶ中間にあって屈曲部に位置する、いわば“ノドボトケ”。そこを馬子は外交の拠点と位置づけ、土地を分与したうえで開発を厩戸に委ねた。(P130)
○『古事記(ふることふみ)』の記述が舒明に代わる前、推古の代で終わっているのも象徴的です。何が象徴的なのかといえば、舒明前代の推古までが『古事記』編纂における「古事」だったということ。言い換えるなら、舒明から新時代がはじまったという認識だったのです。・・・百済大寺において、塔と金堂がヨコに並ぶという、あたらしい伽藍配置が生み出されました。これは大陸には全く見られないものです。しかも東アジア有数の規模をともなって。・・・それは政治力、経済力、技術力、組織力のみならず、美的感性も含めた知性、情報収集力、さらにはこれら全てを束ねる力量なくしては、とうてい達成できない事業でした。(P156)
○天智には<舒明-斉明>を両親にもつという、これ以上ないバックボーンがありましたが、天武にとっては母斉明の存在こそ、頼りにし得る最大のよすが、拠りどころだった。・・・“国母”的イメージを抱かせる「皇祖母尊」は、昔から伝わっている素朴な女性太陽神と重なるのではないか。それなら、女帝を母にもつ自分の即位は十分にあり得るのだ。・・・天武の正統化を盤石にするには、女神を皇祖神に立てることがきわめて有効でした。祖先神を女性とするこの方針は、鸕野皇后の立場も強化することになり、大いに望むところだったでしょう(あるいは鸕野の発案だったか)(P206)
○伊勢神宮・・・入口は例外的に、妻面と直角をなす面にとっている(=平入り)。これは意外に思われるでしょうが、大陸伝来の伽藍建築の流儀なのでした。・・・もっとも日本的と思われがちな伊勢神宮ですが、そこには大陸からの影響が濃厚に反映されています。天皇制律令国家の誕生に向かう天武・持統朝の文化的風潮は、排他的に日本一辺倒というよりは、意外かもしれませんが大陸文化を積極的に取り入れていたのです。(P356)
○697年、持統は孫の珂瑠を首尾よく皇太子とし、この年に譲位つまり「生前退位」をおこないます(文武天皇)。念願の天孫降臨を実現したのです。・・・これを達成するためにこそ、持統は自らを皇祖神に擬していた。自らをモデルとして皇祖神アマテラスを創造していたのです。・・・政治的意図の下に天孫降臨神話が創作され、政治と神話が綯い交ぜとなる。これにより天皇が現人神と権威づけられ、その天皇による後継指名が一般化します。これが「生前退位」定式化のはじまりでした。ここから「万世一系」の物語が現実と化してゆくのです。(P405)