とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

往復書簡 無目的な思索の応答

 中日新聞東京新聞)の夕刊に掲載されていたコラムを収録したもの。そういえば最近は武田砂鉄のコラム、読んでないかな。もう終わったみたい。連載されていた時は、わかったような、わからないような、何を煮え切らないことを書いているんだろう、と思った気もするが、こうして往復書簡としてまとめられると、お互いのやり取りが見えてきて、よくわかる。お互い、相手のコラムを受けて、しかし必ずしも真正面から受けるのではなく、うまくずらしながら、また違うお題で返していく。これ、いつまでも続くような気がしたが、一応、初めから終わりが決まっていたみたい。でもお互いすごく気が合うようだから、またどこかの媒体で同様の企画があれば面白いなとは思う。

 二人の文章内容を見ると、武田氏は文筆業で食べているので、どうしても売り物としての執筆内容について気にする部分があるが、又吉氏はお笑いという本業があるからか、小説に対しては「自分独自の文章を追求したい」という開き直りがあるようだ。それでもそうした逡巡や思い惑いも含めて両者はすごく同調し、響き合っている。それが楽しく、気持ちいい。やはり武田砂鉄っていいなあ。又吉もいいけど、小説はまた読むかどうかはわからない。コラムの方が面白いかもしれない。でも一人ではしんどいかも。二人の波長の高さと周期の微妙なズレ具合がちょうどいい。

 

往復書簡 無目的な思索の応答

往復書簡 無目的な思索の応答

 

 

○【又吉】自分に対する批評については厳しい言葉であっても嬉しいことが多いです。一部の納得できない批判には感情的にこそなりますが、それはサッカーで相手選手の正当なタックルで倒された時に感じるものと同質の、プレーを向上させるために有効な怒りなので批評は必要だと思います。(P13)

○【武田】自分の主観に侵入してくる企みをいかに捌いていくか。……こういう時に思い出すのは「自分の感受性くらい/自分で守ればかものよ」という茨木のり子の詩の一節で、自分の感受に他者からの誘発が含まれているのならば、やっぱりそれを必死に掻き出したいのです。(P31)

○【武田】日々遭遇しているリアルには、圧倒的な偶然がいくつも入り込んできます。おそらくどんな人でも同じはず。その手の偶然って一体どこからやって来るのだろう、と思います。……大杉栄は、自我の大部分は他人の自我である、と述べましたが、少なくとも自我のいくらかは「偶然」に委ねられていると改めて感じました。(P35)

○【武田】ひらめきって、「ピカッ」を待つ行為ではないと思っています。頭の中はいつもものすごくごちゃごちゃしていて、埃をはらったり、土を掘り返したりしながら、さまざまな素材をぶつけ合ってようやくひらめきや切り口が生まれるのではないのか、と。/斬新と言われて喜ぶ前に、それ、長年溜め込んでようやく出てきたヤツだからね、とひとまず伝えたくなるのです。(P95)

○【又吉】すべての正解を知っているような話し方をする人を基本的には信用しません。そういえば、なぜか母が嫌がる言葉が二つだけあって、ひとつは「殺す」で、もうひとつが「絶対」でした。(P109)