○ムカつくものにムカつくと言うのを忘れたくない。個人が物申せば社会の輪郭はボヤけない。個人が帳尻を合わせようとすれば、力のある人たちに社会を握られる。今、力のある人たちに、自由気ままに社会を握らせすぎだと思う。この本には、そういう疑念を密封したつもりだ。(P291)
「あとがき」の最後の文章である。その後ろには「改めて読み返すと、いちいちそんなこと言わなくてもいいのに、と思うのだが、今、いちいちこんなことを言わなくてはいけないのだ、と思い直している。」という言葉で「あとがき」は終わる。
確かに、かなり細かいこと、ここまで言うか、といった類の批判が全編満ちている。しかし同時に、「なるほど、そうだ。確かにおかしい」と思うことが今の世の中、日本には溢れている。「明日に向かって走れと言われると昨日に戻って眠りたい性分」(P249)という自己分析は面白いが、私も同じ性分かもしれない。それでも言葉が多すぎて、読みながら、最も訴えたいことは何なんだ、と思わず読み返す。そこが筆者の難点かもしれない。だが、批判する、怒るということは重要なことだ。
これまで、武田砂鉄は芸能人への批判を主会場にしているのかと思っていた。世間批判はあったが、政治批判をここまでしているとは知らなかった。しかもそれは右派・左派といった政治的立場ではなく、ただ現状に対して批判をしている。「現在をあやふやに」し「過去と未来に逃げる」。「この時間軸を(巧みに)統率しながら」政権をコントロールし、政治的実権を握り続ける「安倍政権のやり方」そのものを批判する。具体的な政策ではなく、その手法を批判する。そしてそれに「隷従する私たち」に疑問を投げかける。
なぜ現在の私たちは、そのあまりに稚拙で、露骨な言い訳と強弁と論理のすり替えばかりの安倍政権を許し、受け容れ、隷従してしまうのか。その理由について書かれているかと思ったが、そこまでは明示してはいない。それは、現在に生きる私たち、日本人全般が、不安な状況に置かれているからではないか。また、その不安をあおり、コントロールする術に優れた安倍政権。そんな「力のある人たち」に異議を申し立て、そうした行動や考えに警鐘を鳴らす。まさに武田砂鉄がしていることはそんなことなのかと思う。空気よりも先に「気配」として漂っているものを察知し、それを「コミュニケーション能力」などと持ち上げないこと。本書はまさに炭坑のカナリアの鳴き声かもしれない。微かに。だがその声に耳をそばだてよう。気配の後には空気、そして現実がやってくるのだから。
○世論調査から漂う主たる支持の理由は、「他の政党よりはマシ」との妥協だ。・・・彼らはずっとそれを「支持」と言い張ってきた。強固な支持基盤とは異なる妥協的な支持を、不安視せず、自ら洗脳するように巧みに運搬するのに長けてはいる。・・・基盤を固めるのではなく、盤をあやふやにしておきながら、いざという時に、これは基盤であり、既に支持を得ていたんですと言い張る論法が続いてきた。(P71)
○目の前に汚れているお皿があって、これ、どうするの、と問いかける。この汚れのほとんどが、ボクが使う前からあったものなんだよと言う。それに、これからキレイになるからさ、と言う。そんなことを云いながらテーブルに鎮座している人を私はどうしても信じられないのだが、少なくない人がそれを信じている。現在をあやふやにすること、そして、過去と未来に逃げること、この時間軸を統率しながら、安倍政権の基盤らしきものがあやふやなまま機能し続けている。(P75)
○多くの人がこの報道が正義だと感じてくれそうな方向へ急ぎ、たとえバランスや配慮に欠いているなと気付ける事象であっても、共感してくれるほうに急いでしまう。そんな報道姿勢、および受け取る側の姿勢が、昨今、強化されている。・・・国を転覆させるわけではない小さな事象が、この国の平等という概念が正しく機能していないことを知らせてくれる。・・・「首相のポスターに落書きした場合のみ逮捕される社会」なんて、しばらく前に聞かされれば、冗談でしかなかったはずなのだ。(P198)
○相模原事件や県警盗撮事件後の反応を見ていると、ますます「○○の場合においては、監視されても仕方ない」という風土がジワジワ広がってきている。なぜ「あ、どうぞどうぞ、監視してください」と体を差し出すのか。自分は絶対に正義の側に居続けるという自覚を捨てるべきである。そんなものは些細なきっかけで反転する。(P219)