とんま天狗は雲の上

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孤独になったアインシュタイン

 「量子の新時代」に紹介されており、つい興味を持って本書を手に取った。「孤独になったアインシュタイン」というタイトルに、アインシュタインの伝記物かと思っていたが、豈図らんや、「アインシュタインの孤独」を口切りに、科学又は科学すること及び科学者の社会との関わり、位置付け、人間にとっての意味などを語る書き下ろしエッセイである。
 シリーズ「グーテンベルクの森」の1冊として刊行されており、著者と本との関わりが本来のテーマである。そのテーマで、理論物理学者の佐藤氏は、社会との関わりの中での科学者史とその著作に思いを巡らせ、科学とは何か、科学の意味を描いていく。
 後半は、科学初学者に向けた科学研究の心得として読めばいいだろうか。自身の経験を語りながら、物理の教科書との接し方や研究の進め方を述べ、佐藤氏の幅広い著述内容と関心の広がりに至る経緯を語る。それはそれで面白いが、ただの野次馬には「物理学者も大変ですね」と他人事のように思い、そして少しばかり自分の専門や仕事と社会との関わりについて思いを馳せる。
 そんな本である。佐藤氏自身に関心のある人、物理初学者が読むと面白いのではないか。

●20世紀に巨大組織化し、官僚組織化し、顔の見えなくなった科学の社会的イメージが強まるにつれて、人々はますますアインシュタイン神話に救いを求めてバランスをとったように思える。21世紀に引き継がれるべき「アインシュタイン神話」とは、「科学者と社会のあいだの共感」であり、それを回復することが21世紀科学の課題であろう。(P20)
量子力学が持ち込んだ「測定」という恣意的操作のもたらす世界像の実存性と、マッハが実存の基礎を「感覚」に置いたことを比較してみる必要がある。マッハの「感覚」は人間という統合体、身体、を形成してきたものであり、秩序や表象の源泉でもあり、さまざまな物理学の概念の中に生き延びている。マッハはその期限を認識した上で、それに代わる新しい秩序原理の発見が可能だと言っているのである。質量でさえ人間的要素であるとの認識が要ると言っているのである。(P69)
●20世紀に猖獗を極めた国民国家と科学・教育との関係をめぐる課題から外されて、アインシュタインは孤独になっていった。・・・これを科学者・知識人の典型、あるべき姿と見るのか、それとも「ずれ」ていると見るのか? 倫理・教養の基盤は文化・伝統の歴史・地域性をもち、それから切り離された身軽な科学が理想なのか空想なのか? 「孤独になったアインシュタイン」は、自明でない問題を提起する。(P89)
●かつての修身では徳目、立志、学問・勉学、努力・勤勉、自立・自営、倹約・節制が教えられたが、高度知識社会における動機付けとしては、知的興味、成功、報酬、蓄財、尊敬などが、いろいろな場で挙げられる。だがそこには、それでどう人生の辻褄が合うのか、という人間像の議論が欠落していると思う。前述の立身出世ブームの経過が示すように、全員の成功はありえないから、「負け組」が多くなると初期の有効性は減退する。高度知識社会構築でいえば、現在の状況はそこに入りつつある。(P148)