とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

家守綺譚

 職業柄、「家」と名が付く本は取りあえず気になる。前から気になっていた本ではあったが、数週間前にこの本に対する高い書評を目にし、思い切って購入した。結論から言えば、期待はずれ。
 手放しで褒めちぎる解説が巻末に付いている。それを読みながら思った。少し高尚な少女マンガみたいだな、と。
 文明文化が次第に浸透しつつある明治期を舞台に、大学卒業後、亡くなった友人の旧家を借り受け、雑文家として暮らす男の奇妙・面妖な日々を描く。四季の植物と季節の移り変わりの中で、亡霊、河童、小鬼、人魚などが次々と現れ、それを当たり前と受け入れる市井の人々との交流・交歓。
 女流作家がこうした時代設定の上で、若いインテリ男性を描くとすると、こうしたロマンティックなエキゾチックな感じになるのはよくわかる。よく描けている。しかし心を揺さぶることはない。面白い。パラパラ。読み終えた。それで?
 よくできた少女マンガである。

家守綺譚 (新潮文庫)

家守綺譚 (新潮文庫)

●私をいつになく破滅的に豪気な気分にした。・・・百足もマムシも何するものぞ。ゴローが帰ってきたのだ。(P34)
●土間の勝手は天井が張られておらず、その屋根裏の、私が竿を持ってしても届くか届かぬかというぐらいに高さに天窓がある。そこからの日照が、元々は昼間でも暗い土間を、薄ら明るい光で満たしている。この奇妙な植物が、うらなりの病人のようなふらつきを見せながらもモヤシのような速度でもって隆盛を誇ったのも、その弱光のせいであったのだろう。とにかく色素が薄い。透明な水の如き黄緑である。(P44)
●信仰というものは人の心の深みに埋めておくもので、それでこそああやって切々と美しく浮かび上がってくるものなのだ。もちろん、風雪に打たれ、耐え忍んで鍛え抜かれる信仰もあろうが、・・・表に掘り出しても、好奇の目で見られるだけであろうよ。それでは、その一番大事な純粋の部分が危うくなるだけではないのか(P66)
●文明の進歩は、瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。鬼の子や鳶を見て安んずる心性は、未だ私の精神がその領域で遊んでいる証拠であろう。鬼の子や鳶を見て不安になったとき、漸く私の精神も時代の進歩と齟齬を起こさないでいられぬようになるのかもしれぬ。(P155)