騙された思い。「“数の天才”が351冊に謎に挑む知的ミステリー」という帯は大嘘。ミステリーでもなければ数学も味付けとして使われているだけ。「書誌学と数学を大胆に駆使し、濃密なエロティシズムで包み込んだペダンティックな快作」とも。ホンマかいな? 書誌学もデタラメ、数学は中学卒業程度。これをもってペダンティックと言うのか? 濃密なエロティシズム。これは確かにそのとおりだが。
消えた装丁家の女性を探す数学者。彼女は数学者とはもちろん、彼の前妻、さらに前々妻とセックスをするだけでなく、前々妻の娘と息子とも。3人の絡みのシーンも。それでもなお彼らはおろか親戚者の多くに慕われるという設定。彼女を探し求めて、彼女から贈られた数冊の本を手掛かりに、多くの人が動く。特に主人公である数学者には残りのすべての本が遺贈される。
だが、3・4・7方式という意味もないランダムに選びだした数冊の本を手掛かりに、彼女を探し求めて放浪する。特に「ドン・キホーテ」に魅せられ、読み解きながら、探求を続ける・・・って、いったいどういう意味があるんだ?
さっぱりわからない。数学、蔵書、装丁といった言葉に騙された私がバカだった。「ようこそ、デイヴィッド・ベイジョーの世界へ」って、二度と騙されないぞ。全く意味が分からない。
と言いつつ、最後まで読んだんだよね。ま、私に本書を理解するだけの能力や知識がないだけかもしれません。楽しめる人はぜひ楽しんでください。私は、上記のとおりでした。
- 作者: デイヴィッドベイジョー,鈴木恵
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/08/28
- メディア: 文庫
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●彼は数学理論ならよく理解できる。それどころか、きちんとした理論ならどれもよく理解できる。・・・けれども、彼は自分自身を理論にできない、と語り手のシルヴィアは述べている。これはシルヴィア自身のピーター・ナヴラティル論によれば、彼が自分を自分の数式に入れられないからだった。(P39)
●本というのはどれもパフォーマンスなの。そのパフォーマンスが人にその本を読ませる。人はそれを、頼まれもしないのに読んだり聞いたりする。その本を読んで、それについて考えたり話したりするのは、たまたまそれに出くわしたから。(P370)