とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

誰が小沢一郎を殺すのか

 本書の発行は3月1日である。東日本大震災の10日前。小沢一郎も、不信任案の採決の際には多少その動向が注目されたが、いまやすっかり過去の人になってしまった感がある。地震原発事故がなければ、こうした話題がなお日本の政界を賑わしていたのかもしれない。そういう意味では「惜しい」本である。
 しかし世界は止まってはいない。東日本大震災など世界の国々にとってはしょせん一小国で起きた出来事である。もちろんドイツやイタリアの原発停止など、福島原発の事故が他国の政治運営に影響を及ぼしたことはある。しかし日本はこの問題に対して先導的な役割を果たしてきたわけではない。ただの先行的一事例に過ぎない。しかも最悪の事例である。イタリアでは「日本ですらあんな対応しかできなかったのだから、わが政府ではもっと悲惨なことになる」と言って反対票を入れたというテレビ・インタビューが流れていた。報じたマスコミは日本の方が優れていると言いたいのかもしれないが、官僚の業務遂行能力はそうだとしても、国民の主権度という点では、国民投票すらない日本の方がはるかに劣っていることに思い至らない。まさに本書で暴かれる権力構造の中のマスコミの姿である。
 本書では、既存秩序を守るべく法すら支配下に置く高級官僚とビジネス・メディア界のエリートたちによる日本の権力構造の特異な姿が描かれている。それはもはや日本にとっては「免疫系」となってしまったという指摘は、喩えとしても秀逸だ。
 しかし世界が大きく変わりつつあると言われて既にかなりの時間が経っている。この間、日本は世界の変化に付いていけず、旧態然のままで劣化してきた。加えてこの大震災とフクシマ・クライシスである。
 プロローグの書き出しは次のような文章で始まっている。

●大地震や大災害に見舞われると、人間というものははたと現実に気づくのか、あらためてよく注意して周囲を見回すようになるものだ。(P1)

 はたして我々は「注意して周囲を見回」しただろうか。免疫系の作動の前に、またや目を閉ざしてはいないだろうか。再度、大震災と原発事故の向こう側にあるものを注意深く見る必要がある。そのことを思い出させてくれた1冊であった。

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀

●社会秩序であれ、政治あるいは経済的秩序であれ、官僚にとっては、国家にかかわるあらゆる秩序こそが日本が守るべきもっとも重要なものであった。・・・ところが・・・法律が中立的な規則である以上、それは法的枠組みを逸脱した、非公式な体制側のやり方を揺るがしかねず、日本の非公式な政治秩序にとって脅威となる可能性がある。そこで日本の官僚たちは、法律に支配されるのではなく、みずからがそれを支配することにしたのだ。(P62)
●省庁の高級官僚と、ビジネス界やメディア界の幹部からなる日本の政治エリートは、決して純粋な意味での日本の独立を求めようとはしない。それどころか彼らは、アメリカ政府が日本の超法規的で非公式な権力システムの存続を支援してくれる見返りに、日本を引き続きアメリカに隷属させようとしているのである。(P172)
●日本の政治システムに施されたこのような仕組みは、すでに1世紀以上にもわたり、まるで人体の免疫系のような働きをしてきた。たとえばバクテリアといった異物が侵入すると、白血球はそれを取り込み、そうした細菌を殺して人体を守ろうとする。それと同じように、政治家が現体制を揺るがすようになると、検察はメディアとともに、その人物を寄ってたかって阻もうとするのである。(P176)
●問題は、日本の政治エリートたちには、アメリカが日本の安全を確保してくれると期待することはもはや不可能だ、という事実が認識できていない点だ。現実はむしろ逆なのである。日本を守るどころか、今後、アメリカはアジアの秩序をも破壊し、混乱をもたらすだろう。・・・アメリカが日本を保護するなどということはもはやあり得ない。そして世界経済も1980年代までの状況とはまったく様相が変わってしまった。(P197)