とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

最終講義

 2011年1月22日に行われた神戸女学院大学での最終講義に加え、2011年1月に京都大学で行われた「日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)」と題する講演、2010年6月に行われた「日本はこれからどうなるか? “右肩下がり社会”の明日」、2010年10月に大谷大学で行われた「ミッションスクールのミッション」、2008年1月、守口市職員組合講演会での「教育に等価交換はいらない」、そして2010年5月に日本ユダヤ学会で行われた「日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか」の計6回の講演会の講義録を掲載。
 もちろん講演会によってその内容は異なるが、いずれもこれまでの内田本に書かれてきたことと大差ない。しかし、内田樹って講義でもブログとほぼ同じ口調で語るんだ。いや口頭の方がよりわかりやすいかもしれない。
 大学での講演が多いので、教育論が多い。最後に掲載された日本ユダヤ学会の講演では、自分がなぜ武道とユダヤ研究を続けてきたかと問うて、「反米かよ」と絶句する。こういう正直さとあっけらかんとしたところが内田樹らしくてイイ。
 そしてこの最終講義後、さっぱりと学問を捨て、武道家の道に入った。道場主である。一方でブログでは相変わらず切れ味のいいエッセイを綴っているから、これからまだまだどういう活躍をするのかわからない。内田樹から当分目が離せない。

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

●音楽とは、「もう聴こえない音」がまだ聴こえていて、「まだ聴こえない音」がもう聴かれているという経験のことです。過去と未来に自分の感覚射程を拡げていくことなしには、音楽は存在しえない。・・・言葉もそうです。ある単独の点的な時間では言葉というのは存立しえない。・・・「もう存在しないもの」を現在のうちに持ちこたえ、「まだ存在しないもの」を先取りする。そのふたつの仕事を同時に遂行することなしには、僕たちは対話することも思考することもできない。「存在しないもの」とのかかわりなしに、我々は人間であることができないのです。(P027)
●競争社会・格差社会が出現するというのは、要するに豊かで安全だからですよね。貧しいとき、危険なときには人間は、というか生物は、競争なんかしないんです。それよりは助け合う。協力して破局の到来を押し戻そうとする。(P130)
●言葉というのはまず定義があって、それから使うというものじゃありません。まず使ってみて、それが「ぴたりとはまる場合」と「うまくはまらない場合」があることがだんだんわかってきて、その思考錯誤を積み重ねているうちに、次第にどういう意味で自分たちがその言葉を使っているのか絞り込まれて来る。そういうダイナミックな順逆の転倒のうちで言葉の意味は確定される(P253)
●僕の中で武道とユダヤを結びつけているのは、「アメリカを眼下に睥睨したい」というナショナリスティックな欲望ではないのか、と。まさかこの30数年間、自分が全力を尽くしてやってきた心身の訓練とユダヤ研究の究極の目的が、「反米かよ……」というので、かなりショックを受けたんですね。(P275)