とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

さよならクリストファー・ロビン

 高橋源一郎の作品を1回読んでみたいと思っていた。そして初めて読んだ高橋作品がコレ。これでいいのだろうか? 高橋源一郎の作品っていつもこんななんだろうか。「新潮」に掲載された短編が6編。テーマは「消滅」? 
 「さよならクリストファー・ロビン」では童話の登場人物が消えていく。星や生物や物質が消えていく。ことばも消えていく。
 「峠の我が家」ではお話が消えていく。「星降る夜に」は、死にゆく子供たちに本を朗読する男の物語。だが、子供たちは男の心を吸い込むようにして死んでいく。
 「お伽草紙」は母親と妹を亡くした少年と父親の話。0,0+0,0+…,1,1+1,1+…,2…,3…。父親は少年にせがまれ、いろいろなお話をする。少年の発想も面白い。そして4はアトムとトビオの話。5。父親と少年はさらに会話を続ける。
 「ダウンタウンへ繰り出そう」は「死んだひと」と一緒に生活する話。倫理的で理想的な「死んだひと」たちは、しかしいつか生きた人たちによって排除され、消えていく。余白が残る。
 最後の1編は「アトム」。アトムとトビオの話。そして次第に若くなり、知識を無くし、最後は子宮に入ってそして消えていく少年の話。どんどん違う人間に変化していく青年の話。トビオは天満博士に悪意を吹き込み世界消滅を謀る。消えていく世界。だがそれに抵抗するのは少年とパパの会話だ。
 「ぼくたちって、ほんとに、いる、のかな」「いるよ」「なんで?」「そうだったらいいな、ってパパが思っているから」

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

●「イーヨー! 行っちゃ、ダメだ!」/「行く? どこへ? みんながいう『虚無』とやらに? ねえ、プー、ぼくはね、いまはもう、『虚無』憧れているのかもしれない。『虚無』に抱かれて、眠ってしまいたいのかもしれないんだ」/そして、イーヨーは行ってしまったのだ。(P22)
●大切なもの、偉大なもの、愛しいものは、みんな消えてしまった。壊れやすいものも、小さなものも、みんな。けれど、わたしには、まだ、するべきことが残っているわ。・・・さあ、わたしの仕事をしよう。何が起ころうと、いままでもそうして来たように。いつか、あのドアを、大きな帽子をかぶった男や、スーツを着たウサギや、トランプの女王さまがノックする時が来るまでは。(P54)
●ぼくは、「2分13秒」のあいだ、あることをかんがえた。でも、それは、その後では、もう、ぼくのところにない。でも、あの「2分13秒」があったことはたしかだと思う。それから、その「2分13秒」のあいだにかんがえたことも。なのに、もうない。あの「2分13秒」のあとの、もう1回分の「2分13秒」でも、ちょっとはかんがえた。・・・その「2分13秒」も、もうない。あったものが、なくなるのは、かんかへんだ。なくなったような気がしないし。でも、あるような気もしない。(P92)
●「じゃあ、パパの前に、ふたり、ぼくがいて、片方が、パパの息子で、もう片方が、息子じゃないとしたら?」「そのふたりは、どちらも、きみ、ということかい?」「うん、そうだよ」「それは、なかなか、おもしろい問題だ」・・・「きみが、どうして、そんな風にかんがえたのかは、わからないが」とパパはいった。「たいへんすばらしい」(P130)
●「パパ」「なんだい?」「パパって。ほんとに、パパ?」「たぶん」「ぜったい、っていって!」「なんで?」「こわいから。パパ」「なんだい?」「ぼくって、ほんとに、ぼく?」「そうだよ」「えええっ! なんで? パパは、パパじゃないかもしれないのに、どうして、ぼくはぼくだってわかるの?」「そうであってほしいから」「そんなんでいいの!」「いいんだよ」「ねえ、パパ」「なんだい?」「ぼくたちって、ほんとに、いる、のかな」「いるよ」「なんで?」「そうだったらいいな、ってパパが思っているから」(P218)