とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

資本主義という謎

 大澤真幸の対談本と言えば、「ふしぎなキリスト教」「おどろきの中国」とヒットを飛ばしてきて、その第3弾ということかと思う。だが前2書とはかなり対象への態度が違う。前2書では対象となるキリスト教や中国は理解すべき対象であり、ある意味、リスペクトしていると言える。しかし本書の「資本主義」に対する姿勢は、乗り越えるべき古いシステムということに落ち着いていく。
 第4章「成長なき資本主義は可能か?」で、大澤真幸から、資本主義は社会変革のモチベーターとして役に立たないか、未来へのリスクテイクを起動させる部分だけ利用する成長なき資本主義はできないか、と盛んにアプローチするのだが、エコノミストである水野和夫の回答は、「資本主義のいいとこどりはあり得ない」とにべもない。そして第5章「『未来の他者』との幸福論」では、大澤の持論である「不在の存在」を埋める「第三者の審級」への旅に出る。答えはない。ただ資本主義ではないということだけが述べられる。
 「第三者の審級」とは、広井良典がいう「地球的公共性/地球的スピリチュアリティ」のようなものかと思うが、なにしろ「不在」いや、いまだあったことがない「未在」だから、それが何かわからない。ただ、大澤も水野も感覚的に述べるのは、若い世代への期待であり、未来世代への希望である。我々は何とかしてこの資本主義というロクでもないシステムを終わらせなければならない。撤退には向かない資本主義というシステムの中で。
 水野和夫というエコノミストを私はこれまで知らなかった。資本主義を歴史的な視点の中で捉えようとしている研究者のようで(もっとも前職は証券会社勤務だが)、資本主義は「蒐集」のための究極のシステムであり、日本を始めとする先進国が現在陥っている超低金利状態が10年以上にわたって続く状況を「利子率革命」と呼び、「長い十六世紀」以来の出来事だと指摘する。そして「長い十六世紀」によって中世の荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムが変わったように、いままさに「長い二一世紀」はシステムの変わり目だと主張する。
 なぜ資本主義はそれまで先進国だった中国やイスラム圏で誕生せず、西欧で生まれたのか。資本主義はなぜ世界全体のシステムとなりえたのか。こうした疑問に対して、第1章、第2章で答えていくのだが、水野氏の独特の解釈が十分説明しきらないまま次の話題に移ってしまい、経済学に知識が乏しい読者には理解しずらい。「中心/周辺」、「海の国」と「陸の国」など、いったい何を示しているのか、よくわからない。そもそも資本主義とは何かが十分説明されていない。どうやら、「投資」がキーワードのようだが、それがわかってくるのはようやく第3章「長い二一世紀と不可能性の時代」に入ってからだ。
 だが、第3章に入って以降、俄然面白くなる。二人の立場が次第に明確になり、資本主義の限界が示され、次のシステムへの希望と期待を語る。3.11以降、世界が変わるという予感が言われた。前にも書いたような気がするが、実は3.11が要因ではなく、それ以前から始まっていた社会システムの限界が3.11により起こった様々な不調や問題によって明らかになってきたということだろう。世界は新しいシステムを求めている。いや、置き換えられなければならない。しかしそのシステムはまだ見えてこない。少なくともこれまでのシステムにしがみつくことは、ますます社会を混迷させ、悲惨な格差社会へと落ち込んでいく。
 「制度には未来がある。・・・しかし、人々には未来なんかない。人にあるのは希望だけだ」(P304)。イリイチの言葉は未来をつくるシステムを探せと言っている。「桐島は部活をやめた」。「桐島なき世界」を作っていかなければならない。

資本主義という謎 (NHK出版新書 400)

資本主義という謎 (NHK出版新書 400)

●日本は「失われた20年」の間、何度も成長戦略を打ち出してはことごとく失敗しています。これはちょうど、オランダの風車に過去の価値観である騎士道で対抗しようとしている、セルバンテスが描いたドン・キホーテの世界と同じだと思います。「蒐集」の時代は終わりつつあるのに、近代価値観に拘泥した「成長戦略」という竹槍で、ポスト「蒐集」の時代に立ち向かおうとしているのが今の日本です。(P177)
●社会システムの中にはいろんな要素があるけれども、すべての要素が平等の意味を持っているわけじゃなくて、システムの中でドミナントな意味を与える要素があるんです。前近代社会だと、それは宗教だと思います。だけど近代社会で、宗教の代わりに全体の土俵の機能を果たしていたのは、実は経済なんですよ。しかも宗教から経済への移行というのは、たまたま地位が移行したわけではなくて、ちゃんとしたつながりがあることを説明しようとしたのが、マックス・ウェーバーです。(P192)
●資本主義も、未完成である限りでのみ、うまく機能するシステムかもしれません。未完成ということは、「周辺」がある、ということです。しかし、資本主義化が進むと、もはや周辺は存在しないという状況に到達するでしょう。資本主義が生き延びるためには、むりやりにでも周辺をつくらなくてはならない。金融空間なんていうのも、実はそうやって作為的につくられた周辺空間みたいなものですよね。(P238)
●利子率革命すなわち資本の低利潤化が長期化すると、過去の過剰資本に耐えられなくなって、具体的には働く人を貧しくすることでしか、資本を維持できなくなったのです。・・・自国民から略奪してまで利潤率を上げようとした段階で、資本は国家・国民に対する離縁状を突きつけたことになります。所得の二極化は最終的には、近代国家の基盤をなす中産階級を没落させ、社会そのものを崩壊の危機に陥れることになるのです。(P260)
●ぼくたちが現在直面している深刻な問題というのは、たいてい、今生きている人たちが死んだあとに困難が顕在化する問題です。・・・こうした問題に対応するためには、自分の死後を含む不確定でもあるような未来に対して、あえて一歩を踏み出していくという態度を、強化する必要がある。・・・資本主義は、そのような支えとなるシステムだったかもしれない。・・・成長のないシステムに移ったとき、あるいは資本主義とは別のタイプの社会システムへと移行したとき、未来への態度の形式もまたかなり変化している可能性があります。(P275)
●今のシステムには未来がないということです。・・・そして今のシステムから新しいシステムへと移行するためには、まずは現システムから撤退することが一番重要なんですね。・・・そして資本主義は、撤退のシステムとしてはあまり向いていない。(P277)