とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

新世紀のコミュニズムへ

 久しく大澤真幸を読んでいなかった。この間、けっこう多くの本が出版されていた。順次読んでいこうと思う。その最初として、まずは一昨年4月に発行された本書から。ほぼ2年前、ということはまだコロナ禍真っ盛りの頃だ。そしてウクライナ戦争も始まっていない。

 本書は、斎藤幸平が提唱する「脱成長コミュニズム」を受けて書かれたもののようだ。脱成長コミュニズムは資本主義の後に来るシステムとして正しい回答だと言う。ただ、そこには一つの問題がある。そのためには、資本主義の死を受け入れなければならない。しかしそれが困難だ。脱成長コミュニズムは「はっきり言えば…魅力に欠ける」と言う。それは「どうしても、自由の制限を含意してしまうからだ」と指摘する。ではどうするか。

 実はその先が難しい。大澤はそこから「絶対知」の達成を説くのだが、どうやってそこに至るのか。それは「資本主義の内側からこそ絶対知の境地に達しうる」と言う。すなわち、資本主義はそれを追及すればするほど、拘泥すればするほど、自ら瓦解する、というのだが、本当にそうなるだろうか。

 書き下ろしの第5章では、<未来の他者>を迎え入れ、ともに闘うことが必要だと言う。われわれは如何にして、未だ存在しない<未来の他者>と連帯できるだろうか。そこまで資本主義の圧力の中で生き続けられるだろうか。我々はいかに資本主義の桎梏から逃れ、新世紀のコミュニズムへ至ることができるのだろうか。大澤はそのあたりをどう構想しているのか。続いて他の本を読んでみようと思う。

 

 

○富の格差は、もし地球上の全人口に対して、所得や資産についての累進的な税を課すことができればまちがいなく縮小するのだが、各国が、自国への投資を有利なものとなるように税制度を決定すれば、逆に格差が大きくなる。要するに、国民国家こそが、最大の障害である。…つまり「国民国家の内部には強い連帯があるが、国民国家の間には競争かあるいは暫定的な利害の一致しかないという状況のもとでは、国民国家の存在が問題を深刻にする(P49)

MMTの理論は、われわれが国家に対してもっている不可解な負債感を…貨幣の流通の前提にしていた。しかし、MMTをあえて自己破綻するほどに活用するということは、国家に対するこうした負債感も消える…国家なるものへの依存や信頼も消滅に向かう。…国家という媒介なしに、ベーシック・インカム的な実践だけが残ったとしたら、そこに現れるものは何か。/それこそ、人類が長いあいだ夢見たユートピアではないか。人はそれぞれ能力に応じて貢献し、必要に応じて取る。国家の代わりに出現するのは…このスローガンに実質を与える究極のコモンズである。(P128)

○資本主義の最大の魅力は、「自由」にある。…脱成長コミュニズムは、この自由に制限を加える。…この場合、自由を制限する他者…は誰なのか。未来の他者、未だ生まれてもいない将来世代だ。…脱成長型の社会を選択するということは…未来の他者の呼びかけに応えることを意味している。…これが文句なしに正しかったとしても…自由の放棄をともなうとすれば、脱成長コミュニズムを実行するうえでの障害となるだろう。(P162)

○資本主義は長く生きられないことを、われわれは実は知っている。このままではいずれ、何らかのかたちのとてつもない破局が待っていることを、である。…しかし他方で、人類は今、このことを知らないかのようにふるまっている。…すべての活動や対策が、資本主義が永遠に生きることを前提にしている。(P215)

○資本主義には、結果的にコミュニズムへと結びつく力と資本主義の内部にとどまろうとする力との間の闘争が内在している…反復的な闘争の中で、コミュニズムに向かいうる側の勝利…は、現在のわれわれが…<未来の他者>と連帯したときではないか。…これからも繰り返される破滅的な危機において、現在のわれわれが<未来の他者>とともに闘うならば、そのたびに、不可能だったことが少しずつ可能なこととして獲得されていくだろう。…その漸進的な歩みの先が、来るべきコミュニズム、新世紀のコミュニズムである。(P244)