とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

徘徊タクシー

 路上生活者の住まいを取り上げた写真集「0円ハウス」で一躍注目を集め、「独立国家のつくりかた」で一般にも広く知られるようになった坂口恭平は、早稲田の建築学科の出身だ。ホームレスの住まいに着目した研究は他にもいくつかあるが、彼の場合、その表現が卓抜なのだと思う。そのけれんみのなさがいかにも早稲田の建築学科出身らしい。そんな筆者が小説を書いたと言う。どんな内容かと興味を持って読み始めた。
 これはどこまで現実の話なのだろう。祖父危篤の知らせに故郷の熊本に帰った主人公(「恭平」と呼ばれるから、まさに自分自身だ)が、葬式の最中に認知症になった曾祖母の世話をしてクルマで思い出の地へ連れていった。その経験を元に、徘徊タクシーの営業を行うことを思いつく。だが陸運局の不許可の通知に意外にあっさりと開業はあきらめ、それで知り合ったタクシー運転手の認知症の母親を乗せて、また老人の記憶の世界を彷徨う。
 主人公自身の妄想と、小説自体が妄想的で、いったいどこまでが現実に筆者が体験したことで、どこからが想像の世界なのか、わからなくなる。まあたぶん、認知症の曾祖母をクルマに乗せて徘徊したことは現実で、そこから先は想像なのだろう。いや創造か。
 面白い。本職の小説家と違って、どこか現実とつながっている点が建築家らしい。終盤で、「実感のできる見えない空間を人々の眼前にあぶり出すような建築家になろう」と思う場面がある。筆者のまさに実感だろうか。妄想建築家・坂口恭平の冒険はまだまだ続く、といったところか。

徘徊タクシー

徘徊タクシー

●僕は今、トキヲを見ている。トキヲのその瞳を見ている。人間の視神経は焦点が合っている部分しか実は見えていないそうだ。つまり今、僕が本当に知覚できているのはトキヲのその眼球だけなのである。・・・さらにトキヲには世界がどのように見えているのかを想像した。彼女の記憶は認知症という病気によって混乱している。そのために「現実」という幻覚を作り出すことができないトキヲの視界には漆黒の闇が見えているのかもしれない。(P17)
●向かいには神社があった。江戸時代末期に起きた大地震によって発生した二十メートル以上の津波が河内町白浜を襲い、数十戸あった集落が全て流され、多くの人が命を落とした。この神社は津波で亡くなった人々を弔い、悲劇を忘れないようにするためのものであった。(P46)
●よく見ると岩の上に小指大の男女がぽつんと立っている。僕は二人に向かってけむりを吹きかけた。男は片手でそれをはね除けながら、横の女をしっかりと抱きしめている。・・・それは若かりし日のトキヲであった。(P54)
●どんなに手を伸ばそうとしても決して届くことがない時間が、身近な空間の中に漂っている。自分が今感じている世界だけが事実ではない。祖母には祖母の、母ちゃんには母ちゃんの、そして、トキヲにはトキヲの、この家への視線と時間の堆積がある。見えている風景は同じようで、実は全く違うのかもしれない。(P61)
●徘徊タクシーは実現不可能になったかもしれないが、きっかけとなったトキヲ次元は運転手のおかげで妄想ではなく、実感のできる一つの空間であると感じられた。このような見えない空間を、人々の眼前にあぶり出すような建築家になろう。熊本でも東京でもそれでも駄目なら世界中のどこでもいい。僕が本当にやろうとしていたことに突き進もう。祖父の言葉が聞こえた。(P111)