元外交官で政治学者の浅井基文氏のブログ「『引きこもり国家』への進む日本(ハンギョレ文章):21世紀の日本と国際社会」が日韓関係の悪化を懸念する人々の間で注目を集めている。ネトウヨからすれば怒り心頭な内容ではあるのだが、この論文の中で、「『1965年日韓体制』を根本的に改めるために不可欠な日本側の主体的・国民的条件の欠如」として、日本国民の3つの意識が挙げられている。これが興味深い。
一つは、「政治意識としての『権力の偏重』(『お上』『上下』意識)。二つ目が、「歴史意識としての『既成事実への屈服』(日本人特有の『現実』意識)。そして三つ目が、「倫理意識としての『集団的帰属感』(俗に言う『長いものに巻かれろ』など)。これらの日本人特有の意識が、「日本人一人ひとりの思想と行動を強く縛っている」と指摘している。
自分を振り返っても、確かにそうかもしれないと思った。個人的には、「権力への偏重」は少ないと思うが、「既成事実への屈服」は確かにある。既成化されてしまったコトは仕方なく受入れて、その次を考えようとする態度などはまさにそのとおりだ。「集団的帰属感」はへそ曲がりなので、敢えて「長いものに巻かれる」ことには反発するが、しかし大勢が受け入れてしまえば、「既成事実に屈服」してしまう。
この文章を読んで、私がまだ30代初めの頃、今は大学院大学至善館の学長を務めているモンテ・カセム氏とお会いした時のことを思い出した。モンテ・カセム氏はスリランカ出身の都市計画の専門家だが、私の上司とカセム氏が将来のニュータウンのあり方等について楽しく議論を進める中、私に意見が求められ、はっきりと返答をしなかったことに対して、「どうして自分の意見を言わないのか」と非難された。上述の3つの意識のどれに該当するのかも定かではないが、日本人特有の考え方がスリランカ人には理解できないものとして映っているということを感じた。
浅井氏が上記の3つの意識に加え、日本人特有の「国際認識における『天動説的国際観』という対外意識(日本的『中華意識』)」も影響しているとしている。浅井氏のブログ「日本の対朝鮮半島政策を考える:21世紀の日本と国際社会」によれば、「天動説的国際観」とは、かつては中国、現在はアメリカを頂点に各国家が序列的に配列していると考える類の国際観であり、朝鮮は常に日本に朝貢ないし従属すべき存在と考える。この「根底にあるのは、他者の存在を承認し、承認するという他者感覚の欠落」であり、群れることで安心し、「異質な存在を許容しない自己中心主義の根本的な原因」だと指摘する。またこれはウェストファリア条例以降の国民国家論にも反する国際観だと手厳しい。
国内で安穏と暮らす国民に、上記のような意識の存在を指摘し批判するのは厳しすぎるとは思うが、少なくとも政府や国会議員にはこうした日本人の意識について理解しておいてほしいし、外交政策を進める上ではなおのこと、国際的に日本の政策や社会状況がどう見えているか知悉しておく必要がある。もっとも浅井氏は、日本国民がこうした精神的「開国」に至ることは難しいだろうと述べ、「物理的・強制的な『開国』しか」ないと書いている。つまり「黒船」や「占領」といったことなのだが、実際問題、現在の日韓関係はいったいどこまで行ってしまうのだろう。
日本はこの日韓貿易戦争において、既に真珠湾攻撃を始めてしまったような気がする。この戦争はどういう形で終戦を迎えるのか、そこまでの青写真が見えない。1941年12月に始まった太平洋戦争は、翌年の6月にはミッドウェー海戦で早くも転機が訪れた。「断韓」とか「韓国なんて要らない」なんて言っていると、とんでもないしっぺ返しがあるのではないかと不安になる。