とんま天狗は雲の上

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新たな恐怖政治に向けた壮大な実証実験という恐怖

 安倍首相が新型肺炎に抗するため、新型インフルエンザ等対策特措法の改正を目指す考えを示した。当初は新たな特別法の制定を主張していたが、何とその理由が「新型インフル等特措法は民主党政権時に制定された法律だから、その適用拡充による対応を嫌がった」というのだが、本当だろうか。しかし、新型インフル特措法も、緊急事態宣言の発令など、国民の権利制限に直結する項目がずらっと並べられており、立法当時から批判が多かった。また、わざわざ法改正をせずとも、新型肺炎新型インフルエンザ「等」の中の一つとして扱えば、現在の特措法の中で十分対応できるという声も多い。それを敢えて法改正するというのは、単に「やってる感」だけの目的なのか、それともさらに人権制限項目を増やすことを意図しているのか。現時点では法改正の内容が必ずしも明らかではなく、その真意はわからない。

 しかし、先日の学校休校要請を嚆矢に、世間の様相はまったく変わってしまった。特に都心の繁華街を中心に、デパートは開店時間を短縮し、居酒屋は閑古鳥が鳴き、勤労者は仕事が終わるとすぐに帰宅を急ぐ。週末も外食に出ることなく、家に籠ってテレビを観るか、ゲームをしている。みんな、眼に見えないウイルスに恐怖し、不安を募らせている。でもこれって実は、新型コロナウイルスの感染を理由に、安倍内閣が新たな恐怖政治を始めようとしているのではないか。そんな思いが沸き上がった。

 恐怖政治と言えば一般的に「権力者が、自らに反対するものを投獄したり、殺戮したりなどという苛烈かつ暴力的な手段を用いて弾圧することによって国民に恐怖を抱かせ、強引に自らの権力を保つような政治全般のことである」Wikipediaには書かれている。だから、現在の安倍政権の状況は、いわゆるこれまで定義されてきた意味での恐怖政治ではない。これまでの恐怖政治は、恐怖の源泉が権力者自体から発せられてきた。しかし2007年、ナオミ・クラインは、自著「ショック・ドクトリン」の中で、政変や災害などの危機的状況につけ込んで、過激なまでの市場原理主義を導入する手法を惨事便乗型資本主義と呼び、痛烈に批判した。この場合の恐怖や不安は、資本側が自ら興したわけではなく、惨事の発生に便乗して、市場原理主義を導入していったものだ。

 今回、安倍政権は政治の世界に同様の手法を持ち込もうとしているのではないか。新型肺炎の感染拡大に対する国民の不安・危機感・恐怖心。これにつけ込む形で、独裁的政治手法を導入しようとしているのではないかという危惧。現に、今回の新型肺炎騒動が始まった初期の時期に、伊吹文明衆院議長は「改憲の実験台」と発言したし、これまでも中東危機に乗じての自衛隊の派遣や北朝鮮からのミサイル攻撃等に対する武器・装備の拡充なども行われてきた。

 しかし、これまで語られた恐怖や不安は、今回の新型肺炎ほどには国民にとって身近なものではなかった。だからこそ野党も批判したし、自衛隊派遣や武器・装備の拡充も実感できる形で我々の生活に影響を及ぼすことはなかった。だが今回は違う。大きな恐怖がまさに現実のものとして身近に迫っている。直接的に暮らしが脅かされようとしている。そんな恐怖心の前に、伊吹発言の時には「緊急事態」という言葉に批判的だった野党や左翼系のマスコミも、北海道での緊急事態宣言に対して何も批判しなかったし、現特措法適用による緊急事態宣言発令を促す声さえ聞こえる。

 このまま日本はどうなってしまうのか。図らずも壮大な実証実験が始められようとしている。この状況をどう治めるのか。いつか治まるとして、現在進められようとしている政策によって、日本はどう変わってしまうのか。新たな恐怖政治の始まりにならないのか。新型コロナウイルスとは別に、そこはかとない恐怖を感じている。