とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

娘にとっての母と、夫にとっての妻。死を意識した時の違い。

 くも膜下出血で入院した妻だったが、今は死亡の恐れからは遠ざかった。だが、救急車で病院に運ばれ、救急医から「くも膜下出血」と告げられた時は死を覚悟した。直接、それについて話はしなかったが、同席していた娘も同様だったと思う。

 これまで親族の死と言えば、祖父母と母親だろうか。義父も一昨年亡くなったが、私にとっては血縁者とは違い、悲しみはあっても、妻が感じていた感情とはかなり違いがあったように思う。いや、妻にとっても、90歳を過ぎた父親の死は、長く闘病を続けていたこともあり、ある程度、覚悟をもって迎えたはずだ。だが、今回の妻の発作は、突然のことでもあり、かなりの動揺が走った。

 そしてそれは娘も同じだろう。だが、娘にとっては母親であり、私にとっては妻である。現在も妻は入院を続けているが、その後に想定される結果(回復または死亡)に対してどう感じ、受入れるかということを考えるにつき、娘と私では相当に違いがあったように感じる。

 娘にとっては何と言っても自分を生んでくれた母であり、唯一無二の存在である。そこには選択はなく、好きも嫌いもなく、母は唯一の母である。そして、母は娘にとって絶対に年長であり、先に死ぬのが当然の存在でもある。私の母はもう15年近く前に亡くなったが、長くパーキンソン病を患っていたこともあり、死の報を聞いた時には悲しみと同時に「仕方ない」「苦しみから解放されてよかった」という思いも沸き上がってきた。

 現在の娘を見ると、もちろん母親が今の時点で死んでもらっては困るし、絶望的に悲しむと思うが、しかし結局最後は受け入れざるを得ない。なぜなら、母親は娘より先に死ぬのが普通だから。そうあきらめている感じがする。もちろん生き続けることを願ってはいるが、死をいつかは受け入れざるを得ないと思っているはずだ。

 一方、私にとっては、妻は先に死ぬべき存在ではない。同い年でもあるし、性別で考えれば、普通は私の方が先に死ぬはずだろう。そうは言っても、私の父母を見ても、若い母の方が先に亡くなった。だから、妻が先に亡くなるということも当然予期しておかなくてはいけない。とは言っても、母親が娘よりも先に亡くなることに比べれば、確率的にもはるかに低いし、できればそんな経験はしたくない。実際、経験せずに済む男性も多い。

 また、妻は私にとって血縁ではない。妻が私の妻になったのは必然ではなく、二人の決断があって結婚をした。だから、ひょっとしたら別の女性が妻であった可能性もあるし、その女性であれば、私よりも先に死ぬかもなんてことを考えることはなかったかもしれない。逆に、今回の妻の病気は私の決断が招き寄せたのかもしれないし、妻が死ぬとすれば、私にはいくばくかの責任があるようにも感じる。

 だから、娘にとっての母と、夫にとっての妻は、決定的に異なる存在なのだ。その二人が同じ女性を見つめ、同じ女性の手を握って回復を願っている。しかし、同じ行動をする二人の胸中に去来する思いは少なからず異なっているに違いない。妻がまだ闘病中(リハビリ中)にも関わらず、こんなことを考えるのは不謹慎だろうか。たぶんそうだろう。だが、ふとそんなことを思った。もちろん妻よりも私の方が先に死にたいと願っている。そう、あのさだまさしの歌のように。だが同時に覚悟もしている。母が娘よりも先に死ぬ確率は100%に近いが、妻が夫よりも先に死ぬ確率は50%以下だろう。だが、0%ではないのはわかっている。