とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

真実の終わり

 機関銃のようにトランプ批判が乱射される。筆者は全米一の辛口で辛辣な文芸批評家と言われるそうだが、その銃口がトランプ政権に向けられ、嘘とポピュリズムアメリカの政治を奪い、全体主義へ導こうとしていると批判する。だが、筆者が真実と主張するロシアゲート疑惑や気候変動問題などが実のところどこまで事実なのかはわからない。ただ筆者はそれらを否定するトランプは巨悪だとひたすら批判の連射を続けるのみである。

 それでも、こうした風潮を培った要因として、ポストモダニズム脱構築主義、そして主観性の隆盛を挙げるところは確かにそうかもしれない。だが、結局それとて、人々に受け入れられたから今に続いているのだ。そして、それらの土台の上に、インターネットが構築され、情報の民主化が起こり、結果的にフェイクニュースの横行や情報の搾取が起きてきた。それをどれだけ批判しようと、けっして引き戻すことのできない過去ではないのか。

 一方で、トランプの悪行として筆者が批判する「考え方を支配する取り組みの一環としての日常の言語の乗っ取り」という文章を読んで思い出すのは、安倍政権(昨日、辞任を公表したが)によるネット工作であり、世論操作だ。かつ、トランプ以上に安倍政権があくどいのは、トランプ政権では自分たちが信じる政治思想実現のためにネット工作が行われているのに対して、安倍政権においては単に自己利権の擁護と維持のために行われているように感じる点である。

 理想実現のための政治活動の一環としてのネット工作や世論操作はありかもしれない。仕掛けられた側も当然、対抗工作を進めるだろう。いや、今や一方的な強者となってしまったか。例えば中国のように。だが中国とて、習近平にしても、真に恐れているのは約13億人の国民の気持ちであり、動きであるはずだ。

 そんなことを考えてみると、重要なのは「真実」ではなく、その「結果」ではないのかとさえ思ってしまう。いや、本当に重要なのは「真実など本当はどこにもない」ということを知っておくことではないか。と、これは先に読んだ「街場の親子論」で語られていたことでもある。ちなみに、内田樹脱構築主義として批判されることがある。私も内田樹から大きな影響を受けているのかもしれない。「真実はひとつ」と叫んでカッコつくのは、コナン君くらいのものではないか。ミチコ・カクタニ氏の機銃掃射にはただ狂気しか感じられなかった。

 

真実の終わり

真実の終わり

 

 

ポストモダニズムはすべてのメタ物語を否定しただけではなく、言語の不安定さも強調した。…脱構築主義は…あるテクストについて生じ得る矛盾や多義性に焦点を絞ることで、極端な相対主義を広めた。それが意味することは究極に虚無的だった。何だって、どんな意味でもあり得るのだ。…明白な、あるいは常識的な解釈などない。なぜならすべてが無限の意味合いを持つからだ。つまり、真実というものなど存在しないのだ。(P44)

○学術界によるポストモダニズムの支持と並行し、70年代には…「ナルシシズムの文化」…「Me Decade(個の10年)」という…潮流が花開いた。…こうした主観性への信奉によって、客観的事実の地位が低下した。知識より意見、事実より感情を賛美する傾向は、トランプの台頭を反映し、助長している。(P50)

○人間にとって言語とは、魚にとっての水のようなものだ。…米国と世界は、トランプのホワイトハウスが発表する嘘の連続や、不信と不和を広める道具としての言語の使用に混乱を生じている。そしてこれこそが、歴史を通じて全体主義的な政権が、人々のコミュニケーション方法だけでなく、考え方を支配する取り組みの一環として、日常の言語を乗っ取ってきた理由である。(P74)