今年1月の直木賞を受賞した。図書館で予約していたが、ようやく順番が回ってきた。そして感動した。歴史物語だから、直木賞ということかな。いや、芥川賞でもいい位だ。
厳寒の地、樺太(サハリン)の物語なのに、どうして「熱源」というタイトルなのだろう。主人公の一人、ピウスツキはサハリンに来て、アイヌとの交流の中で、人として生きる熱をもらったと言った。「生きるための熱の源は、人だ」(P371)という文章もある。厳寒の地であれ、人は熱を持って生き、生きている限り、熱を持つ。人から熱が失われた時とは、すなわち死だ。そして明治維新後、日露戦争、さらには太平洋戦争。樺太にも多くの人が暮らし、生きてきた。熱を持って。そんな熱源たちを描いた小説ということだろうか。
ピウスツキを始め、本書に登場する人々の多くは、実際に生きて、存在した人々だ。樺太アイヌとしての数奇な運命の中で、白瀬南極探検隊に参加した者までいた。法外な熱源と言える。そして金田一京助らのアイヌ研究に繋がる協力や行動をしていることも、人の、すなわちアイヌゆえのなせる業。アイヌとはすなわち、人。
人は、誰のものでもない。たとえアイヌであっても、黒人であっても。Black Lives Matter。そんな言葉が未だにスローガンとして揚げられることを憂う。100年経ってもさして人間は変わっていないのかもしれない。だからこそ逆に、この小説が力を持つ。大坂なおみの母親が北海道出身だということを思い出した。彼女にはアイヌの血は流れていないかもしれないが、少なくとも黒人の血は混ざっている。そしてそんなことに大した意味はない。何より、彼女は、人としての熱に溢れている。人は誰のものでもなく、人は人として生きていく。そんな先達たちを描いた、心が熱くなる作品だ。
○「どうも今どきは…目に見える全てについて、それが誰のものかを決めないと気が済まないらしい」…「チコロビーも、誰かのものになるの?」…チコロビーは「そうはさせない」と思い詰めた顔で答えた。/「人は、自分のほかの誰のものでもないんだ」(P34)
○「彼らは生きています…生かされているわけでも、生きる意志に欠けているわけでもありません。彼らが直面してる困難は、文明を名乗る彼らに不利なルールと流刑植民という政策、そして行政の怠慢です。全て、彼らが希望したことでも、生得の特性によって生じたものでもない…我々には…できることがあります。豊かな者は与え、知る者は教える。共に生きる。絶望の時には支え合う…サハリン島…そこには支配されるべき民などいませんでした。ただ人が、そこにいました(P162)
○この島で出会ったのは、環境に適応する叡智であり、よりよく生きようとする意志であり、困難を前に支え合おうとする関係だった。/それはつまり、人間だ。/非道や理不尽は飽きるほど見た。狡猾な悪人もいた。だが未開で野蛮な人間など一度も見なかった。これからも会うことはないだろう。いないのだから。(P217)
○「弱気は食われる。競争のみが生存の手段である。そのような摂理こそ人を滅ぼすのです。だから私は人として、摂理と戦います。人の世界の摂理であれば、人が変えられる。人知を超えた先の摂理なら、文明が我らの手をそこまで伸ばしてくれるでしょう。私は、人には終わりも滅びもないと考えます。だが終わらさねばならないことがある」(P327)
○「俺たちはどんな世界でも、適応して生きていく。俺たちはアイヌですから」/「アイヌ種族に、その力があると」/「アイヌって言葉は、人って意味なんですよ」/強いも弱いも、優れるも劣るもない。生まれたから、生きていくのだ。すべてを引き受け、あるいは補いあって。生まれたのだから、生きていいはずだ。(P375)