とんま天狗は雲の上

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「死刑ハンコ」辞任騒動に対する違和感

 葉梨議員が「死刑ハンコ」発言を咎められ、辞任した。自民党のパーティーで「だいたい法相は朝、死刑のハンコを押しまして、それで昼のニュースのトップになるのは、そういう時だけという地味な役職なんです」と言ったということだが、その発言が「死刑執行命令という職務を軽んじるような人物に法務行政の責任者の資格はない」とか「死刑を茶化している」と批判され、辞任に至った。

 だが、正直、初めてこの報道に接した時、それほどひどい発言なんだろうかと思った。いや、今もそう思っている。言い方は多少雑だったかもしれないが、たとえばこう言えばよかったんだろうか。「法務大臣といっても、死刑執行の命令に判を押した後の昼のニュースでテレビに出るくらいで、一般の方には、馴染みのない役職ではないでしょうか」。でもこれでは内容的にはほとんど同じなので、やはり同じ批判を浴びるんだろうか。しかし、「法相は、死刑執行の時くらいしかニュースにならない」というのは概ね事実で、それを指摘したら即「死刑執行命令という職務を軽んじるような人物」と糾弾するのは、かなり恣意的な指摘のように感じる。

 私としては、この発言よりも、続いて話したという「外務省と法務省、票とお金に縁がない。副大臣になっても全然もうからない。法相になってもお金は集まらない、なかなか票も入らない。」という発言の方が、より問題ではないかと感じた。これは端的に言えば、「議員や大臣になったのは、カネ儲けが目的だった」と言っているようなもので、議員の資質としてどうかと疑う。しかし、マスコミ報道はもっぱら「死刑ハンコ」を問題とし、「金儲けにつながらない」発言は取り上げられない。これはどうしたことか。「議員がカネ儲けの手段」というのは当たり前で、特段問題にすべき発言ではないということか。

 そこで改めて、葉梨議員のパーティーでの発言の全文を確認してみた。すると、葉梨議員が記者会見で「一部切り取られたような形」と述べたように、全体的には、パーティーの主役である武藤副外相を持ち上げる中で、自らを遜って発言した内容のものだということがわかる。死刑制度に対して、多少軽い感じはするが、けっして「軽んじるような人物」「茶化している」という印象までは持たない。そもそも「死刑制度を軽んじる」と言うが、これを機に、「死刑制度の是非」こそをマスコミは議論し、提示してほしい。死刑制度は重んじるべきものなのか。「死刑制度を軽んじる」という意味がそもそもわからない。

 先に「恣意的な指摘」と書いたが、今回の問題は発言内容そのものよりも、実は「岸田内閣を揺さぶる」という目的のもとに騒いでいるような気がしてならない。ひょっとするとこれは自民党内の派閥争いや、旧統一教会の問題から目を背けさせたいグループが仕掛けた報道戦ではないだろうか。大して深刻でもない問題に対して大騒ぎして、大臣を辞任に追い込む、というのはこれまでも何度か目にしたことがある。今回も同様の騒動が発生したのではないか。

 さて、この顛末はどこへ向かうのか。意外に、安部派の復権といった状況が生まれかねないのではないか。今後の政界の動きを注目したい。でも、本当のところは、こんなことでバタバタやってるような余裕は、今の日本にはないような気がするのだが。大丈夫かな。