とんま天狗は雲の上

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物語は人生を救うのか

 先に読んだ「人はなぜ物語を求めるのか」の続編。前著では、「人間はさまざまな出来事や経験を物語形式で理解してしまう存在である。そしてそれはしばしば誤った理解へ導き、自分自身を苦しめたりする。そのことをよく理解し、自らで作った物語で自分自身を苦しめたり、他人を押しつぶしたりしないようにしよう」といったことが書かれていた。

 本書ではまず最初に「事実は小説よりも奇なり」を取り上げ、実は人は「小説に事実以上の奇を求めていない」ことを示す。そして、「子育て神話」は本当かと疑問を提示し、ストーリーに囚われる人間という存在を指摘する。でも、ストーリーから漏れた「脇道」にも「本筋」に劣らない素敵な事柄や経験がある。青い空、鳥の声、わが子を抱いた時の喜びや驚き、二人で食べた鴨肉のおいしさ、いや何気ないアスファルトの汚れや人っ子一人いない寂しいスタジアムですら、人生を彩る経験の1つなのだ。

 また、筆者自身が祖母から受けた経験を取り上げ、人や立場によって同じ経験でも全く違って見えることを指摘する。親切ですら、人によっては暴力になり得る。だからこそ、ストーリーに対しては常に慎重であることを助言する。

 「物語は人生を救うのか」。このタイトルに対して、筆者の意見は、「必ずしも救うとは限らない」。いやむしろ、物語の力を過信しすぎることを諫めている。人は放っておけば自然とストーリ形式で物事を捉える存在だ。だからこそストーリーには慎重でなければならない。そんな警句を籠めた本であった。

 

 

○ほんとうに事実は小説よりも奇、でしかないのでしょうか?/むしろ、そもそも人は…<奇>にすぎるものをフィクションに求めていない、というのが正解なのではないでしょうか。/人はフィクションの奇が事実の奇に匹敵してしまうと、そのフィクションをダメなフィクションと認定してしまう傾向があるのではないか、と僕は疑っています。…小説は奇であってほしくない人は意外に多いものです。(P60)

○・人は実話よりもフィクションのほうに「ほんとうらしさ」を求める。/・人がフィクションに求める「ほんとうらしさ」とは、じつのところ「必然性」と呼ばれるものにすぎない。フィクション内の偶然はときにご都合主義として批判される。(P87)

○人生について俯瞰するとき、僕たちはそれを「ライフストーリー」というストーリーの形式でとらえてしまいます。/そうすると、人生が「目的」や「動機」を備えた「筋」のある単線的な構造にとらえられて、シンプルで見通しがよくなるからです。/しかし、人生をそういう「ストーリー」に還元してしまうと、そこからこぼれ落ちるものもたくさんあります。…あの日見た空の青さや…けさの鳥の声、夏の草いきれ、―それらすべてを、ゴールへのステップにすぎないものにしてしまっていないでしょうか?(P127)

○<子育て神話>は三つのものを軽視しすぎています。ひとつは遺伝、ふたつ目は子から親への影響(「親から子へ」ではないことにご注意ください)、もうひとつは学童期・思春期における<仲間>(同級生や遊び仲間)の影響です。…遺伝的な原因で「あつかいにくい子ども」を授かってしまった親は、たとえそれが自分からの遺伝であったとしても、やはり疲れたりナーヴァスになったりして、それが原因で子どもにたいして望ましくない態度で接してしまうことがあるでしょう。(P162)

○親切というのは、相手から見たら暴力になってしまうかもしれないという覚悟のもとでおこなうくらいがいいと思います。…各人が持っている一般論=世界観は、よく見ると人によって違っている部分があります。だから、「ここから先は厭がらせ・暴力・ハラスメントになる」という「ここ」の場所が、人によって違う。…本書で言えることはせいぜい、/「ストーリーは、特定の立場から見たストーリーにすぎない」という、とても慎ましい命題にすぎません。(P187)