とんま天狗は雲の上

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孝明天皇毒殺説の真相に迫る

 中村彰彦氏は直木賞も受賞している歴史小説家である。ということを、私は本書を手にするまで知らなかった。明治維新の裏で、いろいろな陰謀や画策があったという話はよく聞く。孝明天皇が若くして逝去した裏にも何かあったのではないか。明治以降の時代背景もあり、表向きには痘瘡による病死ということになっているが、これについても早くから毒殺説が囁かれてきた。

 筆者は早くから毒殺説を疑っていたようだが、医学博士橋本博雄氏の論文発表を受けて、さらに推測を進め、岩倉具視を黒幕に、妹で女官だった堀河紀子を通じて、女官トップの大典侍にして、孝明天皇への不満を募らせていた中山忠能の大叔母に当たる中山績子が毒を持ったのではないかと指摘する。しかも、長く書き続けられていた「中山績子日記」に、孔明天皇崩御の日の直前から翌年近くに至る11ヶ月間の記述が抜けているのだ。最近、NHKの歴史物の放送をよく見る。「英雄たちの選択」でもこの件を取り上げないかな。楽しみにしよう。

 この件に関する考察がほぼ3割を占める他、後半は、各種雑誌に寄稿したエッセイが掲載されている。これらもなかなか興味深い。やはり歴史小説を執筆するには、多くの古文書や歴史書などを読むのだ。大変だな。いやでも興味深い。こうした歴史エッセイを渉猟するのもまた楽しそうだ。

 

 

西南戦争後、陸軍中将となった三浦梧楼が、「忌憚なく申せば、先帝の御在世が続いたならば、御維新は出来なかった」と素直に回想したのは、三浦が明治天皇の勅許もなく討幕の密勅や錦旗を偽造した岩倉グループに胡散臭さを感じていたためであろう。しかし、孝明天皇毒殺説については…ついに何も調査されないまま今日を迎えたわけである。…問題の中山績子は…明治天皇が東京へ移ったあとも京都御所にあって「西京三位」と呼ばれ…82歳で没した。…明治天皇が女官トップの績子を東京へ呼ばなかったのは、また一服盛られてはたまらないと思ったからではないか、というのは今考えたブラック・ジョークである。(P77)

○それにしても…戦死者が大変少なくて済んだのであれば、生き残った多くの人々を待っていたのは貧困と飢えでしかない。/明治維新、文明開化というと重苦しい封建時代がようやく終わり、明るく楽しい市民生活と自由を謳歌できる時代がやってきたかのようにイメージする人がいる。しかし、それは勝ち組たる西国諸藩の感覚に過ぎず、関東以北に集中的に存在した負け組にとって明治とは隠忍自重を強いられる時代のはじまりであった。(P121)

大老井伊直弼孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印したことから世論が佐幕=開国派と尊王攘夷=再鎖国派に分裂し、幕末動乱の時代になった…・/これは半ば正しく、半ば誤っている論理だ。…寛政年間に起こった朝廷と幕府の角逐「尊号一件」…によって朝幕両者の間に回復しがたい亀裂が走り、それが佐幕派vs.尊皇派の争いの源流になった、という史実が無視されてしまっているのだ。(P168)

阿部正弘…は…国際情勢にもまったく通じていなかった。だから…オランダ国王がペリー来航の近いことを教えてくれても、何の対策も講じなかった。/ペリーが浦賀に来航した、と浦賀奉行戸田氏栄が報じてから、あわてて老中仲間の越後長岡藩主牧野忠雅と善後策を協議した…・/しかも、老中首座は独自のブレインを指名できる。ここでも正弘は人選を誤り、幕府海防参与という特別職に指名したのは水戸藩徳川斉昭という最悪の人物だった。(P173)