とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本の難点

 センセーショナルなブルセラ社会学者として一世を風靡した宮台氏も50代になろうとしている。サブカルチャー系の社会分析にはあまり興味がなかったので、これまで宮台氏の著作を読む機会がなかったが、本書がベストセラーだというので手に取ってみた。
 上から目線が気になるが、麻生首相と違って書かれていることは至って「まとも」。ポストモダン社会をギデンズの定義を引用し、再帰的近代と呼び、“社会の「底が抜けて」いることにだれもが気付いてしまった”社会であるとする。そして、そうした状況では、社会の包摂性の回復または新築が必要であると訴える。
 しかしそれにしても、家族(母親や娘)自慢や自分の価値観がいかに育まれたかを得々と説明するところはやはりカチンとくる。「新住民の僕にいろいろなタイプの旧住民の子がよくしてくれた」と書くのだが、「じゃ、君はみんなにどんなよいことをしたの?」と聞きたくなる。「知的な幅と違い、感情的・感覚的な幅は、成人後は簡単に変えられない」(P99)と書くとき、選民的なエリート思想を感じ取るのは私だけだろうか。
 一つのテーマについてじっくり書くのではなく、コミュニケーション・メディア論、教育論、幸福論、米国論、日本論の5つのテーマについて、思いつくままといった感じで独自の視点からバッサバッサと切り込み書き連ねていく。「好きなところから読んでもらっても」いいように作ってあると書かれているが、同じ理論の繰り返しが気にならないでもない。また「はじめに」が非常に難しい。宮台氏の著作を読んでないと、何を言っているのかわからないのではないか。
 そうした欠点もあるが、社会を見つめる視座や視野と分析はかなり的確。彼のような学者はもっと社会に出て言いたいことを言ってもらったほうが日本のためになるかもしれない。まあ、うるさそうですが。

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

●<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。・・・その結果、何が起こるのでしょうか。答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。・・・家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。(P34)
●インターネットの最大の問題は、「匿名サイトで事件に巻き込まれる可能性」よりも「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」とそれがもたらす日常的コミュニケーションの変質なのだ(P59)
新自由主義はもともと“「小さな政府」で行くぶん「大きな社会」で包摂せよ”という枠組だったのです。家族や地域や宗教的結社の相互扶助・・・をベースに“「大きな社会」で包摂せよ”というメッセージですから、市場原理主義とは似ても似つかないものです。・・・その意味で、元々の新自由主義と、いわゆるネオリベとは区別しなければいけません。(P134)
●「人間はどうすべきか」という一般的(=文脈自由的)な人倫上の議論よりも、「自分たちがどんな場所にいてどんなリソースを持っているから何をするのが有効なのか」という文脈依存的な議論こそが、政治(=集合的意思決定)においては重要です。(P189)
ポストモダン化に伴う権威や正統性の劣化を市民合意(民主主義)で補完するのは危険です。・・・社会には、移ろいやすい庶民感覚や生活感覚を当てにしてはいけない領域、状況に依存する感情的反応から中立的な長い歴史の蓄積を参照できる専門家を当てにすべき領域が、確実に存します。それを毀損すると、逆に庶民感覚や生活感覚に従う「市民政治」自体が疑念の対象になってしまいます。(P225)