とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

マルクス

 斎藤幸平の「人新世の『資本論』」以降、マルクスがちょっとしたブームになっている。白井聡もそれに追随したということかもしれないが、白井聡らしいマルクス論になっているかもしれない。本書を先に読んだら、専門用語が難しく、あまり理解できなかったかもしれないが、「ゼロからの『資本論』」「大洪水の前に」の後では、比較的簡単に読みこなせる。ちなみにページ数も126ページと少なく、かつ紙も厚い。

 斎藤幸平の本と内容的に大きく異なる部分はないが、本書では「資本論」に留まらず「共産党宣言」も解説している。また、マルクスの言明から現在の日本や世界の政治・経済情勢に筆を移し、批判する部分も多く、それはそれでわかりやすいかもしれない。

 それにしても、マルクスの時代はまだ日本では江戸時代末期だった。封建制から民主制に移行する時代にこれが書かれたと思うと、マルクスの先進性がよくわかる。ようやく150年経って、その予言が現実のものになってきたと言うべきか。

 斎藤幸平は、今後の進むべき方向として「脱成長コミュニズム」を提唱するが、本書ではその種の提言めいたものは書かれていない。末尾に「資本の姦計を見抜くことにおいて、マルクスの資本主義分析ほど強力なものはない…われわれは繰り返しそこに立ち返る必要が、依然としてある」と書かれているのみである。そして「このことを確信してもらえたならば、本書の目的は十分に果たされたと言えるであろう」(P120)と書いて終わる。

 少なくとも、「資本主義の正体」だけは理解できた。逃れる道はまだ見えない。「本書の目的は果たされた」と言っていいのだろうか。

 

 

○『共産党宣言』は「二段階革命説」と呼ばれる革命論を打ち出した。すなわち、どの国、社会でも、第一に封建制の社会秩序を破壊するブルジョア革命が必要であり、それによりブルジョア民主主義と資本主義の飛躍的発展が可能になる。そして、資本主義が十全に発展した先のどこかの時点で、資本主義社会の内的矛盾が高まり…そのとき、社会主義革命が可能になる。社会主義革命は、労働者階級を権力の座に就け…資本主義を廃絶し、階級支配を廃絶する。(P32)

○「二重の意味で自由」とは、第一には、身分制的束縛から解放され…自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味での自由であり、第二には、生産手段から自由である、…しかし、第二の自由は、自らの労働力を売るほかに選択肢がないことを即座に意味するのだから、本来的な意味での自由の名に値しない。…そのような「自由な人間」の出現は、その人間が土地から暴力的に引きはがされ、身一つになったことの結果なのである。…それは「万人の平等」を前提とすると同時に、実質的な平等の不在を覆い隠すものでもある。(P58)

○今日の日本でも依然として長時間労働が問題であること、それに対して「働き方改革」などの政策が講じられていること、他方で少子化が進行して労働者階級の再生産が危機に陥っていること、また、発展途上国においては…危険かつ長時間の労働がまかり通っていること、先進国はそのような労働条件を受け入れざるを得ない労働者を途上国から輸入していること―これらの現象は、絶対的剰余価値の生産が形を変えつつも資本主義システムにとってキーであり続けていることを示している。(P90)

○「資本の他者性」…とは、資本が人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており、それによって運動していることを指す。…資本は、ただ盲目的な、無制限の価値増殖運動でしかない。…また、資本家でさえも、資本の乗り物にすぎない…人間社会から生まれたにもかかわらず、人間の意図や欲望とは別のロジックで作用し、したがって人間の手に負えないものとなる、それが資本である。(P96)

○本来、「感動」「笑顔」「仲間」「感謝」「協働」「共感」「連帯」「団結」といいたものすべては、われわれが自主的につくり出すべきものだ。…だが、消費社会的受動性が極限化するとき、一方では包摂の高度化が人間を純然たる労働力商品の所有者へと還元するなかで、それによって失われるわれわれの人生にとって不可欠な情動までもが、資本によって与えられる商品となる。(P119)