とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

土地神話と領土問題の関係

 数ヶ月前の話だが、わが社の所有地の一角が隣接地を所有する不動産業者に無断使用されていたことが発覚する出来事があった。間抜けな話だが、無断使用されていたことに気付かず、その業者から売ってくれという話があって初めて気が付いた。
 なぜそうなったかと言うと、問題の土地が通常出入りする裏側の部分で、無断使用されても土地の利用に全く不具合がなかったからだ。一方、相手の不動産会社は、その一角をあたかも自己所有地のように擁壁を設置して使用していたが、その土地を宅地分譲しようということになり、開発許可を得るためには無断使用していた当方の土地を加えなければ許可が下りず、正式に土地の譲渡を求めてきたことにより、事態が発覚した。
 このことについて、私は単純に「未利用な土地が売れたのだからいいじゃないか」と思ったが、「不法行為をしていた業者の利便を図るなどとんでもない」とか「無断使用していた期間の使用料も取るべきだ」といった意見を言う者も多く、土地を手放すことに対する抵抗感が根強いことを今更ながら感じた。
 これは「土地神話」が日本人の精神構造に深く刻み込まれたからじゃないだろうか。
 現実には、地価は毎年のように下がっており、土地所有に伴う負担は経年的に高くなる状況にある。売れるときに売るのは、今の日本にあって合理的な行動だと思うのだが、土地を売るとなるとまるで買い手が殺到するかのような幻想を抱いている人が相変わらず多い。地方の商店街がシャッター街になり衰退しているのも、元商店の土地所有者にこうした土地神話から抜けられない人が多いことが要因の一つである。
 これからの日本は年々人口が減少していく。しかし、日本の国土の大きさは変わらない。結果、一人当たりの面積は年々増大する。土地の所有は利用者がいて初めて価値があるが、利用者も減少するから、価値も総体的には減少せざるを得ない。価値よりも負荷の方が大きくなる。
 かつて過疎の町で働いていた頃、山持ちの友人が、「森林組合から毎年組合費が取られ、山の手入れを頼めば管理費が取られ、伐採して売ろうとすると、売却費より伐採費の方が高く付く。山を売りたいが買う人もいない。田舎暮らしを求めて、家を買いたいという人はいるが、裏山も一緒に買って欲しいというと逃げられる」という話をしていた。彼にとって山は完全にお荷物になっている。
 数年前、私の部下に配属された女性は一人娘で、両親も一人っ子だった。両親の故郷は福井県でそれぞれ祖父・祖母が住んでいると言う。私はしみじみ彼女に言った。「もしあなたが、両親が山形出身の同じ境遇の一人っ子の男性と結婚したら、福井と山形、それに両親の住む愛知県の計6ヶ所の土地を、二人で面倒見なきゃいけない。大変なことだ。」と。
 近いうちに若い男性は、「家付き、山付き、婆付き」が当たり前になって、それらを「持たない」人こそ理想の結婚相手になるかもしれない。
 土地はあればいいと言うもんじゃない。これは領土についても言えるだろうか? 尖閣諸島竹島北方領土は、漁場や地下資源があるから価値があり、不法占拠に異議を申し立てることに意味がある。もし所有しても無価値な土地だったら、それでも領土は確保したいと思うだろうか。逆に言えば、尖閣諸島竹島北方領土は、日本にとってどれだけの価値がある土地なのか。
 領土所有の意義は、経済的な視点のみではないという意見は当然あるだろうし、こんなことを書くと、「国賊」という罵声を浴びせられるかもしれない。それにしても、土地が減ることに対して反射的に嫌悪感を抱くのは、実は「土地神話」を経験した日本人特有の習性ということはないのだろうか。社有地の売却問題を見て、ふとそんなことを思った。