とんま天狗は雲の上

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トクヴィル

 最近、トクヴィルハンナ・アーレントハイエクマルクスといった人々に再び注目が集まっている。ハイエク池田信夫氏、マルクス内田樹石川康宏氏で、その思想を読んできた。そして今回、トクヴィルに関する本が発行されたので、さっそく読んでみる。
 先に挙げた4人のうち、トクヴィルマルクス産業革命直後、フランス革命が起こった19世紀前半を生きた人々である。内田氏らの著書でも書かれていたが、マルクスリンカーンは同時代人である。そしてトクヴィルフランス革命により処刑された親族を持ち、自らも翻弄され、ルイ=ナポレオンの第ニ帝政を経験している。
 こうした時代にフランスの政治・社会状況、アメリカの異様な熱気と社会を体験し、冷静に人間社会の有り様を見つめ、思考を重ねていった。この時代背景を十分考慮に入れて、トクヴィルを読んでいく必要がある。
 私がトクヴィルを知ったのは、やはり地域共同体やNPO等への期待という文脈だったかもしれない。若しくは民主主義への期待と懐疑? 覚えてはいないが、前者については、本書では「誤解」(P203)であると書いている。下記の引用にもあるとおり、トクヴィルは地域共同体や結社への期待に言及はしたが、同時にデモクラシーの社会では、維持・形成が困難であることも見抜いていた。そこで、我々はトクヴィルを借用するのではなく、真っ正面から向き合ってこの19世紀の思想家の感性と思考を受け止めなければならない。
 本書で紹介されるトクヴィルの考察は、一つには、平等は永遠の不満を呼び、けっして安定しないということ。二つ目に、平等の萌芽は革命前のアンシャン・レジームの時代に既に始まっており、かつそれは民主的な専制に結びつくものであること。そしてその解決には形式の回復が必要と思われること。
 もちろん、地域共同体やデモクラシーへの期待は主調としてあるものの、トクヴィルの視線はさらにその奥の、人間社会のあり方、人間というものの行動原理へと向かっていた。「形式」が復古主義的に取られがちだが、そうではなく「形式」をどうしようもなく必要とする「人間」という性を見通していた。しかし、だからこそ、安易な処方箋はトクヴィルからは出てこない。
 終章「トクヴィルと『われわれ』」では、福沢諭吉夏目漱石など、日本の知識人を通して、日本においてもトクヴィルが観察したと同じ社会状況が見られたことを紹介しつつ、現代社会への適用に思いを向ける。
 「一九八四年」でジョージ・オーウェルが描いた世界。それが最近やけに現在の日本の姿にダブると感じていたが、トクヴィルの描くアンシャン・レジーム後の近代社会にも同様の社会状況が見られることに気付く。行政の中央集権化、民主的な専制、地域共同体への期待、伝統や宗教などへの依存。それらはまさに今日本で見られる社会現象である。歴史は繰り返すのかもしれないし、民主主義の帰結する先を示しているのかもしれないが、トクヴィルを読むことの意義はこうした点にこそあるような気がする。
 もっとも今さら原本に当たる気はしない。「いい思想家紹介本は、原本以上に効力がある」とここは筆者に阿っておこう。

トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)

トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)

●想像力により加速される平等への愛着は、現実に達成された状態としての平等とのあいだにいつも差異を見つけ、それで満足して終わることができません。それどころか最初に目標として思い描かれ設定された平等と比較して、実現されたはずの「平等」が依然として不十分であることのほうに注意が向いてしまいます。運動はいつも目標に達することがなく、未達成感と不満を残してゆきます。そのためデモクラシーのように「すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく」という事態が生じてきます。これに反してアリストクラシーのように「不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も目に入らない」のです。/「社会が画一的になるにつれて、人はどんなわずかな不平等にも耐えられなくなる」というのは、・・・現代社会学の主題の一つにかかわる、トクヴィルの大きな発見でした。(P55)
●封建制は階層構造を基礎とする不平等な社会でしたが、それが崩されることによって、絶対君主との関係では他の臣民すべてが平等であるような社会が成長します。またこれにともなって政治権力は中央に集中します。それが・・・「巨大な中央集権」です。・・・18世紀のフランスに見ることができるのは、まさにその行政権力の中央への集中なのでした。/とはいえ、その権力は国王自身のものではありません。・・・実のところ国王の身体と国家機構とのあいだではある種の分離がはじまっていました。・・・国王自身ではなく、この官僚組織をとおして権力は中央からしだいに地方の細部にまで滲透します。(P92)
●人々の上には一つの巨大な後見的権力が聳え立ち、それだけが彼らの享楽を保障し、生活の面倒をみる任に当たる。その権力は絶対的で事細かく、几帳面で用意周到、そして穏やかである。人々に成年に達する準備をさせることが目的であったならば、それは父権に似ていたであろう。だが、それは逆に人を決定的に子供のままにとどめることしか求めない。市民が楽しむことしか考えない限り、人が娯楽に興ずることは権力とって望ましい。権力は市民の幸福のために喜んで働くが、その唯一の代理人、単独の裁定者であらんとする。/これがトクヴィルの描く民主的な専制のありさまです。(P161)
トクヴィルに処方箋を求める単純な観点でしばしば引き合いに出される、地域の共同体と結社・・・は、彼の見るところ、平等化の進んだ世界で良好な役割を果たしていたのでしょう。しかしデモクラシーが究極に達した西部にはタウンシップはもはや存在しません。また結社を必要とする社会は結社の形成を困難にする社会でもありました。トクヴィルが注目するのはこの社会の不在であり困難です。困難と不在に直面し、そうであるからこそひとが形式をもつことへの関心が生まれてきているのです。・・・トクヴィルが注視したのは、なによりもまずデモクラシーのもとでの人間の形式の喪失、したがって形式の回復の必要であり、社会的な効用、そのための技術や手段といった水準をはるかに超えたところでの、人間の生存条件そのものにかかわることがらでした。(P204)