とんま天狗は雲の上

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清朝と近代世界―シリーズ中国近現代史(1)

 岩波新書のシリーズ日本近代史は面白く全巻を読んだ。中国近現代史は当初少し興味がないかなと思って敬遠していているうちに、矢継ぎ早に4巻まで発行された。タイトルを見ると意外に興味深い。そこで1巻から読み始めることにした。
 第1巻は、明末から清が全土を制覇したものの、西欧諸国が押し寄せ、近代世界と接触する中で、海岸部では西欧及び日本から、内陸部では太平天国を始めとする住民の蜂起などにより清朝政権が次第に変質し、辛亥革命へと導かれていく過程を描いている。
 清朝の主役は李鴻章や曽国藩など。西欧的な国家観以前の、朝貢宗主国という外交関係の中で生きていた清朝において、西欧の理論や彼我の国力等を勘案しつつ、綱渡りのように国家経営をしていく。一方で、各地で蜂起する太平天国等の不満集団や異民族など。
 自己肥大史観をもって清朝に当たってくる日本も、中国にとっては対応すべき外交課題の一つであった。その中で「東アジア」とはしょせん日本中心の地理観であり、中国にとっては一方面に過ぎない、という指摘は興味深い。
 清朝の衰亡の歴史が、時系列・事項別にわかりやすく記述されており、読みやすい。沖縄処分も中立的な立場から歴史的事実が綴られており、興味を惹いた。歴史はその時々の判断や対応、そしてわずかな偶然に左右されつつ、必然のように進んでいく。中国の歴史は日本と微妙に関わりつつ、独自の地勢的な変化の中で動いてきた。2巻以降、さらに激動の時代に入っていく。今から興味深い。

清朝と近代世界――19世紀〈シリーズ 中国近現代史 1〉 (岩波新書)

清朝と近代世界――19世紀〈シリーズ 中国近現代史 1〉 (岩波新書)

●(南京条約などの)これらの条例は、後世になると「不平等条約」とみなされ、たとえば領事裁判権の撤廃は20世紀前半の中国外交にとっての悲願となっていった。しかし、1840年代の諸条約が結ばれた当時にあっては、これらを「不平等条約」とみなす発想は、存在しなかったといってよい。清朝にあっては、国家間の平等といった考え方自体になじみが薄く、むしろ外国人をなだめるために一時的に譲歩したものと説明されがちだった。(P57)
●1853年、太平天国軍は湖北省の武昌をおとし、つづいて長江を下って南京を占領して、これを天京と改称した。・・・太平天国のみやこ天京では、厳しい社会管理の仕組みがつくられた。すべての住民の財産を没収して、公有とすることが命じられた。(P68)
●日清修好条規は、おおむね両国の対等性という原則にそった内容をもつことになったのである。・・・日本使節団が帰途ふたたび天津で李鴻章に挨拶にゆくと、李鴻章は次のように言ったという。いま欧州各国が公使を北京に置こうとするのは、併吞をはかり国威を張ろうとしているからだ。貴国とわが国とは、その通弊を踏まないようにと願う。李鴻章は、日本が西洋寄りにならずに、むしろ清朝を助ける存在になることを期待していたのである。(P116)
●1875年には、清朝との冊封・進貢の関係を日本政府が絶とうとしたので、琉球士族は強く反発した。清朝への藩属こそが琉球国の存続の鍵を握っていたからである。・・・しかしそれもむなしく1879年、日本政府は兵士・警官を琉球に派遣し、琉球藩を廃して沖縄県とした。/ところが、清朝は、このような日本の琉球併合政策をそのまま受け入れることはできなかった。たとえば、駐英公使郭嵩トウは、国際会議を開いて琉球の独立を認め、今後の朝貢は免除するのがよいと提言した。(P122)
●「東アジア」とは往々にして日本とその近隣国家の意味で用いられ、中国もそのなかに含まれる場合も多い。しかし、清朝にしても今日の中国にしても、広大な大陸国家であり、ロシアなどと長い陸上の国境をもつ国である。中国からみれば四方に隣国があるわけだが、そのなかで日本がとくに大きな意味をもつようになったこと自体、19世紀末以降の日本の軍事的・経済的な台頭という特殊な時代性を帯びていたのである。(P228)