とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「がんばろう!日本」と「お見舞い申し上げます」に違和感を感じる

 もう随分前の話になるが、サッカー日本代表とJリーグ選抜とのチャリティマッチは「がんばろうニッポン!」をイベント名称に掲げて開催された。その後も「がんばろう!日本」は、野球の慈善試合や芸能人の寄付活動などのさまざまな場面で使われ、今年度の流行語大賞にもなりそうな勢いである。
 また、最近、グルーポンやアマゾンなどから届くメールマガジンやテレビCMなどでも、東日本大震災被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます」という言葉がよく聞かれる。
 これらの言葉に対して、私は震災当初よりすごく違和感を感じてきた。
 まず最初は、ココログ広場でつぶやきを書き込もうとしたときに、「お見舞い申し上げます」という言葉が思いつかなかった。その時は「同情します」と書いたけど、それが正しいかどうかわからない。ただ、「お見舞い申し上げます」という言葉を一市民が使うことには違和感を感じた。
 病院へ入院患者のお見舞いに行くことを考えてみると、見舞い客はまず健康で、病室内では励ましの言葉を掛けるけれど、退室した途端、何をするわけでもない。病人の世話をするのは家族や看護師等だが、これらの人々が病人に対して「お見舞い申し上げます」とは通常言わない。
 要するに、「お見舞い申し上げます」と言うのは、「他人」であり「同じ痛みを分け持たない者」であり「直接の手助け等はしない者」なのだ。だから、「お見舞い申し上げます」という言葉を使うのに抵抗感を感じたし、平気で使用している企業等に対しては、その言葉は被災者ではなく、被災しなかった者に向けて、「お見舞いする」姿勢をアピールしているように感じてしまう。
 「がんばろう!日本」についても、同じような感じる。よく鬱病患者等には「がんばれ」という言葉は禁句だと言われる。病気でなくても、被災者は嫌でも「がんばらなければならない」状況に置かれている。「がんばれ」と言われても「これ以上どうがんばれと言うのだ」と反発したくなるに違いない。
 「がんばろう」は、「被災していない自分たちもできることをがんばるので、みなさんもがんばってください」という意味がこめられている。その点ではただの「がんばれ」とは違う。そういう意図を持って使っていることも理解する。しかし、では「被災していない自分たちががんばること」、「がんばるべきこと」とは一体何だろうか。
 アントラーズの小笠原が避難所に駆けつけたときに、被災者から「サッカーがんばってください。小笠原さんががんばる姿を見ることで私たちも励まされます」という趣旨のことを言われたと報じられている。チャリティマッチでの小笠原の出来は、正直、高いレベルのものではなかったが、コンディションも十分整わなかっただろうし、精神的にがんばっていることは理解できる。あのゲームに参加するだけで相当ながんばりが必要だっただろう。
 芸能人でも同様な人はいる。日曜日の朝に見た「ボクらの時代」では、宮城県出身のお笑い芸人、サンドウィッチマンの二人と狩野英孝がそういう趣旨のことを言っていた。が、そう思わない人もいるだろう、「この大変なときにお笑いなんてくだらないことをやって」と。そうした逡巡も彼らはその番組の中で語っていた。
 もちろん東京電力関係者には必死にがんばってもらわねばならない。物資の輸送に携わっている人など被災者の支援に関わる仕事に携わっている人やボランティア活動を行っている人も「がんばるべきこと」は明らかだ。
 では、この種の職業や活動に関わっていない我々は何をがんばればいいのだろう。通常の業務をがんばればいいのか。主婦や学生はどうか。勉強をがんばればいいのか。私の日々のがんばりは被災者にとって意味があるのだろうか。
 「がんばろう!日本」という言葉を見るたびにこうした思いが去来する。「がんばろう!日本」と「お見舞い申し上げます」を聞くたび、見るたびに違和感を感じるとはそういうことだ。