とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

復路の哲学

 今年65歳になる平川氏が語る復路の人生。人生の復路は還暦を過ぎた時から始まるのだろうか。私はまだ還暦前だが、同感する記述が多くある。先日も退職した先輩たちと話す機会があり、自分の退職後のことを考えた。いや、退職後の生活だけじゃない。復路の人生は必ず死に至る。往路の人生が無から生まれるように。だからこその哲学。
 もう一つのテーマは「大人になること」。これもまた、いまだに自分は大人になり切れていないと思う。「大人になる」とはどういうことだろうか。「責任のないものに対して責任を取ること」。「身体の有限性を知ること」。身体の有限性とは、人は死ぬべき身であり、老いるべき存在であることを知ること。「自分の行く末がはっきり見えてしまい、絶望すること」。だが絶望してもなお生きていくための哲学。絶望したからといって死にたいわけではない。復路の人生で見えてくるものもまた楽しからずや。
 私たちが住むこの国も戦後70年が経過し、とっくに大人になったはずなのに、いまだに成長ばかりを望む。大人になり切れていないのではないか。「成熟」という言葉をうれしく思っているうちは大人ではない。そして自衛隊や武器を使いたがる。金を欲しがる。我々はもっと大人にならなければいけない。結局最後は死ぬべき存在なのだから。国民が死ぬとき、国はどうなるんだろうか。死を思わない若者・バカ者に託せばいいのか。その結果が今のような気がする。大人は黙って背中で語るのみ。しかしその背中には悲しみが見えている。

復路の哲学ーーされど、語るに足る人生

復路の哲学ーーされど、語るに足る人生

●言葉というものは、あまりに流暢に駆使されると、その最も重要な養分が剥落してしまうものであるらしい。ただ空転し、他者を攻撃し、威圧し、自分を弁護するだけの、風車が吐き出す空気のようなものでしかなくなってしまう。/昭和の時代の古い日本人は、そんな風にはしゃべっていなかった。(P5)
●責任のないものに対して責任を取るということ、それが「大人になる」ということではないか。/会社においても、社会においても、多くの方が責任の所在を明確にしたがる風潮がある。しかしそれは結局、子供の論理だろう。大人は、自分の責任でないものに対して、それは自分の責任であるという役割を演じる。そういう存在なのだ。(P61)
●同じものを見ていても、境界を知る身体が見る光景は、かたちも色も以前とは違ってくる。この境界、つまりは身体の有限性こそが、人間に倫理とか、規矩というものを与えているものの源泉なのだろう。/人が、真に倫理的になるためには、身体の有限性とは何かを、当の身体が知る必要がある。大人になるとは、そういうことなのかと思う。(P91)
●大人の世界とは、うねうねと続く過去からの時間が、前のめりで上滑りな未来の時間よりも信頼がおけるし、心休まると思ったときに始まる……というのはたぶん嘘だろう。むしろ、自分の行く末が「地図のようにはっきりと見えてしまう」という絶望にも似た思いを噛みしめたときに、人は大人になるのかもしれない。(P135)
●現代から見れば不合理と思えるようなシステムが、ひとつの秩序を構成し、日本人の生活に規矩と倫理観を与えてきたという事実は、今日的な合理性の基準とは別の基準が日本の中に存在していたことを示している。それは、ひょっとしたら経験値の堆積が生んだ、次数をひとつ繰り上げたところにある合理性だったのかもしれない。(P196)