とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

今こそ、感情的距離(エモーショナル・ディスタンス)を密にしつつ、しかし過度にならず、適切に保とう。

 先に「「『三密』『接触8割減』より『ソーシャル・ディスタンス』の方がまだ理解できる」という記事を投稿したが、一昨日の中日新聞「『ソーシャル・ディスタンス』→『フィジカル・ディスタンス』 人との距離、言い換える動き」という記事が載っていた。なろほど、そのとおりだ。WHOも最近、「フィジカル・ディスタンス」という言葉に改めたと書かれている。

 英語のニュアンスはわからないが、「ソーシャル・ディスタンス」が日本語で「社会的距離」と表記されることが多く、これについては違和感を持っていた。「ソーシャル・ディスタンス」はもちろんだが、「社会的距離」だって日頃使い慣れない言葉。「対人距離」とか「離隔距離」ならわかる。でも「社会的距離」ってどういう意味? これもロックダウンやステイホーム週間と同様、あえて違和感のある言葉を使って、注意を引き付けようという意図かもしれないが、意味がわからないのでは、それこそ意味がない。「社会的距離」にはそれ以上に、間違った意味を伝えてしまう恐れがある。

 Weblio辞書によれば、社会的距離とは「個人と個人、個人と集団、集団と集団の間における親疎の程度。これが小さいほど親近感が強く、好意的な態度となる。」と書かれている。これって心理学的、または社会学的な専門用語で、単なる物理的な距離ではなく、精神的に感じる距離のことだ。だから、「社会的距離を取りましょう」と連呼することは大きな間違いを起こす恐れがある。やはりWHOが言うとおり、「身体的距離」というべきである。

 また「社会的距離」の「社会的」には、家族や親族などの個人的な関係とは別に、会社や学校、近所付き合いなど対外的な関係という意味もある。すなわち、身体的距離を取ることが求められる中、「それは対面でないとできませんか」と様々な社会的行為に対して見直しを促すという意図が籠められている。それで今、多くの企業でテレワークや在宅勤務が取られ、多くの学校ではオンライン授業が模索されている。外出にあたっても、他人との接近は極力避けることが求められる。こうした中で、ハンコ文化などの社会的慣行が再考されたり、無駄な会議や出張への見直しが進められることには意味がある。

 一方で、「社会的関係」の中には、対面でこそ伝えられることもある。友人とfacebookで話したことだが、「『接触8割減』と言うけれど、コミュニケーションの代替手段は色々考えられるが、タッチの代わりはない」。握手はやめて、肘タッチをしている映像もよく見るが、それはすなわち、「人はそれほどまでにタッチを求めている」ということでもある。

 テレビ電話等のコミュニケーションでは伝えられず、タッチでこそ得られるもの。それはたぶん「感情」だ。文字だけのメールでは時に誤解が生じるが、表情が伝わるテレビ電話なら相手の気持ちが伝わる。言葉の抑揚、顔の表情や身振り手振り。もちろん、ハグできれば(顔をひっぱたくことができれば!?)、さらに伝わるものは大きい。しかしそれが今はできない。だからこそ、身体的接触はできなくても精神的な接触は増やしたい。感情的距離は縮めたい。

 そう、今こそ「エモーショナル・ディスタンス(感情的距離)」を密にしよう。身体的距離を確保して、感情的距離を近くする。もっとも上で図らずも書いたように、「顔をひっぱたく」など、感情には負の側面もある。ましてやステイホーム週間(在宅週間)の期間中は家庭内での感情的圧力も高まり、衝突も増えるだろう。単に「密」にするのではなく、適切な距離を保つようにする必要がある。いずれにせよ、身体的距離、社会的距離の確保が求められる中、同時に疎外されがちな感情的距離だけは適切に保つようにしなければいけない。