コロナ感染拡大を前に、「GoToキャンペーン」をいつまでもやめようとしないこれまでの政府の方針は、「アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようだ」と批判されてきたが、ようやく21日になって、菅首相から「GoToキャンペーン」の運用見直しをする方針が発表された。だが、運用見直しの具体的な方針は示されず、各都道府県に委ねる形となっており、さっそく小池都知事との鞘当ても起きている。ブレーキの位置は示したが、自ら踏むことはなく、ブレーキ操作は都道府県に任せるということのようだ。
では、ブレーキは踏まないコロナ対策として、政府は何をやっているか。そこで思い起こすのが、ワクチン対策である。19日には、新型コロナワクチンの接種を国民の努力義務として、費用も無料とする予防接種法の改正案が衆院を通過した。この法案では、万一ワクチンを接種して副作用があった場合には、製薬会社が行う損害賠償に対して国が補填することとなっている。しかし、損害賠償といってもどれだけの損害が認めてもらえるのかわからないし、効果と副作用を考えると、とてもワクチン接種に向けて努力しようという気は起らない。それでも国はワクチン接種に向けたアクセルを緩める気はなさそうだ。そう、これはブレーキではなくアクセルではないか。GoToキャンペーンとは逆向きだが、ブレーキではなくアクセル。
GoToキャンペーンが旅行業界などに向けた経済対策なら、ワクチン接種は製薬会社や医療関連業界に向けた経済対策。もっともワクチン開発を進めているのはもっぱら海外の会社だから、経済対策というよりは外交政策なのかもしれないが。それにしても、GoToキャンペーンに税金を投入して商業者を支援し、ワクチン接種に税金を投入して医療関連業界を支援する。新型コロナの感染拡大という惨事に対して、対策という名のエンジンを回し、アクセルを踏み込む。これってまさに惨事便乗型政策ではないのか。
確かにアクセルを踏むのはカッコいいが、エンジンに投入する燃料は我々の税金であり、当然、無尽蔵ではない。アクセルを踏み続ければそのうちには燃料もなくなるだろうし、エンジンが焼き付くかもしれない。そもそもどちらに向かうのか定かではない。今、本当に必要なのはアクセルを踏み込むことではなく、ブレーキを踏んで感染拡大を抑えることではないのか。クルマでも、アクセルに見合ったブレーキシステムがあってこそ安心して運転できるというもの。ブレーキを踏むのはあまり目立たないかもしれないが、アクセル以上に重要だし、繊細な操作が必要とされる。そのブレーキは各自治体や国民の自助に任せているようにみえる。しかし重要なのはブレーキだ。エンジンが巨大になればなるほど、ブレーキ役の負担も増える。国民がブレーキを踏むことに疲弊している。
首相就任時に「国民のために働く内閣をつくる」と言った菅首相だが、「自助」と言って国民にブレーキを委ねる今の内閣は、本当に国民のために働いているのだろうかと疑問に思う。もっとも「(特定の)国民のために」という( )内が隠されているだろうとは、その言葉を初めて聞いた時に真っ先に思ったことではあったのだけれど。政府には、もうこれ以上アクセルは踏まなくていいから、ブレーキを踏む人々を支援してくれと言いたい。「為すなくして治むる者は、其れ舜なるか。夫れ何をか為すや。己を恭しくして、南面を正すのみ」と孔子も言っていたではないか。