とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「男女平等」ではなく「男女公平」。いや、この世に生を受けた者がみんな「公平に生きられる」世の中であってほしい。

 しばらく前から、男女の性別の違いについて考えている。森元首相の女性蔑視発言からではない。その前、いつからだろう? 妻の入院中、そして退院後も、リハビリが続いている。「家事ができるように」という目標が掲げられたが、これって「女性は家事をするもの」という固定概念があるからではないか。同様に、入院中に会った近所の人からは「娘さんがいてくれてよかったですね」と言われた。確かに、退院後は娘が介護休暇を取って、調理や買い物をしてくれているが、入院中は娘も仕事があって帰りが遅いので、私が夕飯の支度はしていた。掃除や洗濯は今でも私がしているし、朝食を作るのも私の仕事だ。結局、「どの家事を誰がするか」というのは、家族の成員の性格や都合に応じて自然にルールができていくもので、そこに男女の区別はない。

 とは言っても、裁縫などの細かく忍耐がいる仕事は、私もやらないわけではないが、妻の方が得意だ。これは女性の生来のものか、それとも後天的なジェンダーか。娘はなるべく男女の区別なく育ててきたつもりだが、何かの拍子に叱ったら突然泣き出して、妻に「女の子なんだから」と言われた。女性だから? それともジェンダーなのか? どこまでが女性生来のセクシャリティで、どこからがジェンダーなのか、わからない。

 平均的な筋力や身体能力は、女性よりも男性の方が高いことは確かだ。一方、出産は女性にしかできないし、生理は女性特有の身体現象だ。それらを踏まえれば、自ずと男女で得意なこと、不得意なことは分かれてくる。最近は女性のトラックドライバーも多いが、機械の運転には筋力差は影響しないということか。美輪明宏が唄う「ヨイトマケの唄」には、男性に混じって土方仕事をする母親が出てくるが、彼女は男性と同じ日当を貰えたんだろうか。

 東京五輪組織委員会は結局、橋本聖子が会長となり、理事比率も女性が4割以上を占めるように改められた。これまでの男性優位な組織よりはマシな気もするが、男女同数であればいいわけでもない。橋本会長が就任のあいさつで「ジェンダー平等」という言葉を口にした。SDGs目標の一つに掲げられた「ジェンダー平等を実現しよう」を踏まえた言葉だろうが、「男女」ではなく「ジェンダー」とわざわざ言うのは、「生まれた時の性別だけでなく、成長過程の文化的差異も含めて」という位の意味だろうか。それとも、LGBT(…)などの性的マイノリティの存在を踏まえた表現なのだろうか。ユニセフ「SDGs CLUB」を見ると、“男女平等を実現し、すべての女性と女の子の能力を伸ばし可能性を広げよう”とある。あれ、女性保護や女性支援だけ?

 「男女平等」とは、男女が性別で差別をされないということだが、スタート時点は一緒でも結果は必ず異なる。性別だけでなく、個々人で異なる。「機会の平等」ではなく、「結果の公平」こそが求められるべきではないか。だからと言って、小学校の運動会で「全員が手をつないでゴールでラインを超える」と聞くと違和感を覚える。「結果は異なる」ことを前提に、各自の「努力を評価」する。いや、評価せずに「公平」に扱う。何が正しいのか、だんだんわからなくなってきた。

 ブログ「世に倦む日日」「男女平等とジェンダー平等は同じなのか」以降、ジェンダー主義に対して異議を唱え、議論を進めている。今、読んでいる赤坂真理の「性と愛と存在のはなし」では、上野千鶴子の東大入学式でのスピーチに猛然と異議を唱えている。いずれも興味深い。

 男は男らしく。女は女らしく。あなたはあなたらしく。でも、「男」と「女」と「あなた」の定義は常に揺れ動いて、定まらない。いや、定義などない。あなたが「男」であれば、それは男らしいし、「女」であれば女らしい。あなたが「あなた」であれば、あなたらしい。あなたがあなたらしく生きることが尊重される社会であってほしい。「男女平等」ではなく、「男女公平」のさらにその先。みんなが「公平に生きている」と思える世の中であってほしい。今日は国際女性デーだそうだが、国際男性デーは11月19日だそうだ。これも男女公平なのだろうか?