とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

東京五輪は「賭け」。負けた時のセーフティネットはあるか。

 オリンピックの開催の是非についてアスリートの意見を求める動きに対して様々な意見があった。池江璃花子の「私たちアスリートはオリンピックに出るため、ずっと頑張ってきました。…」(「池江璃花子を利用した五輪「中止派」と「推進派」の発信に思う…今の状況で“100%の準備”をする選手たちの苦しさ:Number Web」を参照)で始まるコメントは、アスリートの立場を正直に語っており、好感が持てる。以下、抜粋して引用する。

 「…今このコロナ禍でオリンピックの中止を求める声が多いことは仕方なく、当然の事だと思っています。私も、他の選手もきっとオリンピックがあってもなくても、決まったことは受け入れ、やるならもちろん全力で、ないなら次に向けて、頑張るだけだと思っています。…この暗い世の中をいち早く変えたい、そんな気持ちは皆さんと同じように強く持っています。ですが、それを選手個人に当てるのはとても苦しいです。…わたしに限らず、頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います。」

 オリンピックはいったい誰のために開かれるのだろう? もちろんオリンピックに出場し、競技を披露するのは国内予選等を勝ち抜いた一部のアスリートだ。だが彼らとて、オリンピックでなければプレーできないわけではなく、オリンピックという場でもこれまでと同様のプレーをする。オリンピックが特別なのは、普段では同時期には行われない複数のスポーツ競技が短い期間、同じ都市に集まってプレーするという点だ。そして、それらの競技を世界中で多くの人々が観戦する。

 アスリートにとってはプレーすること自体は変わらない。違いは他競技のアスリートとの交流の有無くらいだ。一方、観戦する側にとっては、短期間に多くのスポーツを観戦できる。国別にメダルの数を数えて、一喜一憂し、勝者・敗者を巡るドラマに感動する。どう考えても、オリンピックはアスリートのためではなく、観戦者のためのイベントだ。

 IOCはこうしたイベントの興行主であり、運営者だ。開催国はこうしたイベントが無事開催できるようにサポートする。もちろん興行主としての利潤があり、開催国はアスリート、観戦者、多くの参加者を集めることによる経済効果を期待する。そしてメディアはスポーツと観戦者をつないで利益を得る。こうした経済効果が目的だと言えばそうとも言えるが、突き詰めれば、スポーツをしたいアスリートと、それを観戦する者がいて、オリンピックは成り立つ。スポーツはどこでもできるのだから、結局は観戦者がいてこそ、オリンピックは成立するのだ。

 ただ、メディアの発達により、観戦は必ずしも競技会場に足を運ばなくてもできるようになった。だから、アスリートさえ参加してもらえれば、無観客であっても開催できる。実際のところ、たとえ開催国内であっても、会場に足を運んで観戦できる人の数は限られ、ほとんどはテレビなどで観戦することになる。そうであれば、日本にいようと、アメリカにいようと関係がない。アスリートさえ集まって競技ができれば、オリンピックは成立するのだ。

 とすると、東京オリンピックが中止になる要件は、コロナ禍により一定程度のアスリートが参加しない事態になるか、多数のアスリートと関係者が東京に集まることによって、必ずしも観戦しない一般市民への感染拡大が懸念される状況になるかのいずれかとなる。しかし興行主たるIOCや開催国である日本政府・東京都も「万全のコロナ対策を講じる」と言うだろう。そして、五輪後にコロナの感染拡大が起きるかどうかは、開催後でなければわからない。コロナ感染をさらに拡大させるリスクは必ずある。そして対策に「万全」は絶対にない。すなわち「賭け」だ。東京五輪が五輪史上最大の賭けに勝った大会となることを願いたい。だが、万一「賭け」に負けた場合のセーフティネットはどうなっているのだろう。それについては今のところ誰も言及していない。「賭け」に負けた場合の「セーフティネットがない」のであれば、「賭け」はしない方がまともな選択ではないだろうか。