とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

現代生活独習ノート

 2012年から2021年にかけて、「群像」誌で発表した短編小説8編を収録する。「現代生活独習ノート」というタイトルが示すように、いずれも日常的な日々の中の個人的な思いを綴る。だが、どの作品も日常的ではあるが、必ずしも尋常ではない。

 本のタイトルと似た題名の「現代生活手帖」は近未来的。テーブルをこすると天井と壁が発光したり、外出中に不要なものをこっそり捨ててくれる「捨て物ロボット」がいたり。でも、いずれの作品も、筆者の性格(こうありたいと思う性格?)を反映してか、主人公は内向的で、内省的だ。そして読みつつ、思わず自分を投影してしまう。

 最も共感したのは「牢名主」という作品。人は大きくA群とB群に分けられ、A群の人を気遣わずにはいられないB群の人間は、それゆえに傷つく。でもほとんどの人は自分のことをB群の側だと思っているのではないか。「メダカと猫と密室」も愉快だ。上司や先輩に気を遣う主人公。自分勝手な営業担当の同僚に振り回される社員たち。確かにこんなことありそうだ。また「イン・ザ・シティ」は女子中学生がゲームで作った仮想の都市の物語を想像しつつ、友人たちとのさりげない交流を描く。14歳。いいなあ。

 やはり津村記久子はいいなあ。平易で淡々と描かれる描写が日常的で、かつ心に沁みる。筆者の心根を感じる。やさしく心地よい。

 

 

○母親は、どれだけ私が物事を正しく進めても満足せず、絶対に何か微細な瑕疵を見つけ出してそれをあげつらう。それは、母親が完璧主義者だからというわけではなくて、母親が単に母親として振舞っているからだ。子供の中に不完全な部分を見つけ出し、それを補完するのが母親の生涯の仕事だから。(P45)

○「はじめまして、鶴丸です」/私はへこへこと頭を下げる。/「だめだよ、そんなに頭さげてちゃ」ケスクさんが笑う。さわやかと形容しても良い。/「鶴丸さんはきっといい人なんだね。でも、そう在りたいのだってある種の頑なさの表れだから、それは捨てちゃったほうがいいよ」/私は、はあ、とうなずきながら、思わぬありがたい話を持て余すような気分になっていた。(P96)

○人間が最終的に目的にしていることは、他者からの信頼を得ることだと思うんです。…私は容姿もよくなくて、成績もいまいちな、気の弱い子供でした。けれども、人生の目的を探していました。アドリアナはそれをわかっていたから、それに信頼という花をあしらって私に贈ったんです。…人は何者かになりたいんです。誰かから信頼を得ている何者かに。たとえその信頼の中身が空洞でも、信頼を得ているという気分自体が妄想であるとしても>。(P115)

○キヨの頭の中が、悪への想像力で満たされる。キヨは弱い人間なので、悪いことを考えられるとほっとする。自分が完全に無防備な存在でもないことを自覚できるからだ。キヨは、自分の弱さのことはわかっているが、善良な人間なのか、それとも悪い人間なのかは、十四歳の今はまだよくわからなかった。(P220)

○自分たちにはいくらでも時間がある。だからきっと通り過ぎていくものたちのどれかは、手になじんで輝いてくれるだろう。(P259)