とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ルポ 誰が国語力を殺すのか

 久し振りに石井光太を読んだ。社会の最底辺の人々を取材し、ルポタージュしてきた石井。だが、それは読む者にとっては、少ししんどい。「国語力」というテーマなら多少は気楽に読めるかなと思い、本書を手に取った。でももちろん石井光太が取り上げる現場は、社会の最底辺であり、裏側であり、暗い隙間の世界だ。

 いじめにあっても無抵抗に受け入れる子供。教育崩壊、SNSによるネットいじめ、不登校、ネット依存、非行、そして自殺。こうした状況に対して、何とか子供たちを救おうと奮闘するフリースクールや依存症回復支援を行う民間組織、少年院での言語回復プログラム、そして小中高での取組み。残念ながら、最前線で国語力育成の取組を進める学校はいずれも私学であり、生徒たちの家庭環境も上位カーストに位置する。それでもそれらの取り組みは公立校でも可能だと筆者は言う。

 大学で講義を持っていると、最後は必ず履修学生の成績評価をしなくてはならない。私の場合、講義の途中でレポートの提出を求め、定期試験は記述式で実施している。本来であれば、教科の理解度などで評価すべきだが、採点をしていると結局、文章力の高い学生を高く評価することになってしまう。私自身、けっして文章力が高い訳ではないが、それでも論理的思考を進めるのに、国語力は不可欠だ。その上で、表現力などがあり、文章力として表れる。やはり国語力は何をするにも最低限必要な能力だ。

 「誰が国語力を殺すのか」という刺激的なタイトルだが、具体的に誰それ(例えば文科省)と指弾しているわけではない。文科省教育委員会などに対してもある程度の理解を示す。だが、現場は確実に悪くなっている。それを一部のボランティアや心ある教員に任せていればいい訳ではない。やはり組織的な対応が必要だろう。「国語力の低下=国力の低下」という指摘には説得力があると感じずにはいられない。そして多くの人が国語力を手放した社会は、たぶん相当に住みにくい社会だろうと想像する。

○私が思うに国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎだすのに必要な「心の船」だ。語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる。…社会でうまく生きている人たちは…「自己責任」という言葉で切り捨てる。それが世の中の分断を大きなものとしていき、同じように言葉を持てない者たちが生まれ、新たな社会問題に搦めとられていく。(P24)

○国語力という基盤がなければ、砂上の楼閣だ。日本語でしっかりと物事を考えて表現できない人が英語で何を語ろうというのだろう。…今の日本の教育において盲点になっているのは、まさにこの部分なのではないか。…「今の学校教育のやっていることはズレていると思います。生徒は中身がスカスカなのに、次から次に新しいことばかり上から被せようとする。これじゃ、基礎能力の…ない子は逆に負担に耐えられなくなってつぶれるだけです。(P100)

○世の中には大きな問題を抱えてい…る子供たちが一定数おり、彼らが…ゲーム依存になっているからこそ…社会として制御が必要だと考えているのだ。…ゲーム業界はあの手この手をつかって、特に社会的に弱い立場にある子供たちをゲーム依存に引きずり込んでいるといえなくもない。彼らはそこでさらに言葉を奪われ、自分の苦しみをつたえることも…できずに沼にはまっていく。…中高生のネット依存約100万人という現実の根幹にある問題を、私たちは危機感を持って考えるべきだろう。(P218)

○「日本の学校では、国語は身近すぎて軽視されがちですが、生きることに困難を抱えている人の大半は言葉に問題を抱えています。その苦労を知らない頭のいい大人たちが、彼らを『ちゃんとやれ』と叱っても効果がないんです。それなら、きちんと学び直しの機会をつくり、“考える力”“他者への想像力”“論理力”をつけさせるべきです。(P251)