とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

水車小屋のネネ

 最初、本を手に取ったとき、「えっ、こんなに厚いの!」と思った。あとがきに「自分がこれまで書いた小説の中で、もっとも長い作品を手に取っていただいてありがとうございます」とある。485ページ。確かに長い。だが意外にすらすらと読める。1981年、1991年、2001年、2011年。理佐と律の姉妹が家を飛び出した時から10年毎に、その成長と多くの人たちとの関わり、そして関わった人たちの成長と彼らの人生。それらを、水車小屋の番をするヨウム、ネネとの関わりの中で描く。ヨウムってそこまで賢いのだろうか? それは置いておいて。

 最初、母親の恋人の理不尽な圧力から逃げるところから始まった物語だが、そば屋の守さん、浪子さん、藤沢先生、杉子さんなど、温かい人たちと巡り合い、一度、母親たちが追いかけてきた時もみんなの見事な連係プレーで窮地を脱すると、あとは姉妹と、そして多くの人たちの成長の物語となる。聡さん、研司くん、美咲さん・・・。

 誰も悪人はいない。あんなにひどい母親ですら、赦しきってはいないかもしれないが、理解はする。そうしてできることをし、できないことは受け入れ、みんな1年に1歳ずつ、年を重ねていく。そして、彼らの傍にはいつもネネがいた。ヨウムは世界に愛と平和を呼び込む鳥なのだろうか。ネネもだいぶ年老いた。でもたとえネネが亡くなったとしても、水車とともにまた新しい物語が始まるだろう。次は富樫さんがいて、美咲がいて、研司の家族がいる。また、いつの日か、次の作品に出合える時を楽しみにしたい。

 

 

○母親は最後まで、家の中の女子供への父親の圧力については、そういうものだと思っているふしがあった。…だから理佐は、あんな不自由を律には経験して欲しくないと単純に思っていた。家で誰かに頭を押さえつけられて自由に振る舞えないことと、金銭的な不自由はまったく別の話で…間違っているとは思っていなかった。(P114)

○山下さんは本当のことを話している、と聡は思った。その時聡が感じたのは…本当のことだけを話してくれるとわかっている人と接する時の不思議な気楽さだった。…聡はあまりにも、自分の弱さを正当化するためだとか、誰かに罪悪感を抱かせるために口を開く人々の言葉を真に受けながら生きてきた。その人たちの保身に、どこまでも翻弄されながら生きてきた。…けれども結局、自分は自分で思うほど他人を否定して生きてきたわけでもないことに気が付いた。(P273)

○律は…恵まれた人生だと思った。…自分を家から連れ出す決断をした姉には感謝してもしきれないし、周囲の人々も自分たちをちゃんと見守ってくれた。義兄も浪子さんも守さんも杉子さんも藤沢先生も榊原さんも、それぞれの局面で善意を持って接してくれた。/自分はおそらく姉やあの人たちや、これまで出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている。(P383)

○「自分が元から持っているものはたぶん何もなくて、そうやって出会った人が分けてくれたいい部分で自分はたぶん生きているって。だから誰かの役に立ちたいって思うことは、はじめから何でも持っている人が持っている自由からしたら制約に見えたりするのかもしれない。けれどもそのことは自分に道みたいなものを示してくれたし、幸せなことだと思います」…陽が落ちきる直前に、それはよかった、と律はやっと言った。本当によかった。(P438)