とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

父ではありませんが

 集英社の読書情報誌「青春と読書」で連載されていたエッセイの単行本化。今、話題の少子化対策や子育て論を、子どもがいない夫という立場から論ずる。という内容かと思ったが、必ずしもそれだけに留まらず、「第三者として考える」という副題のとおり、何事も型通りに当事者の語りを中心に論じるのではなく、いろいろな立場、非当事者の立場からも考えることも重要だと主張する。いや、当事者の語りだけで物事が決まってしまうことに異議を唱える。そのことを出産や子育ての様々な場面に当てはめ、かなり具体的に批判する。

 屁理屈?と思ってしまう部分もないわけではないが、常識に流されず、「それってこっちの立場から見るとおかしくない?」と常に立ち止まって疑問を提起する姿勢は重要だ。

 多様性やあるべき家族の形というと、同性婚夫婦別姓などの問題につながる。少子化についても制度がじゃまをしている可能性がある。保守系の人々がなぜこれらの制度を認めようとしないのか。たぶん、現在の地位に綿々としたい、まさに保守的態度なのだろう。それは多様性とはかなり隔たった位置にある。そして事態を少しも改善はしない。

 そもそも家族とは何か。結婚制度とは何か。そこから議論を始める必要がある、という武田の主張は真に正しい。

 

 

○子どもを育てている人に対する眼差しというのは、「こういうものである」と安易に想像されがちであり、その想像がいつしか押し付けになったり、本人へのプレッシャーになっ…ている可能性がある。この加害性については…あまりじっくりと考えたことがなかった。…想像することは大切。しかし…こうしなきゃ、になると害悪。…こうしなきゃダメだよ…は暴力。子どもを育てている人に対して意見を向ける第三者のほうを問うべきではないか、と思う。(P46)

○「同じ1日はたったの1日もないのだから」みたいな安っぽい格言を方々で見かけるわけだが、実際には、同じような1日って平然とある。…先日、90代半ばの女性を取材する機会があり…こちらの訪問を喜んでくれた。…とにかく毎日に変化はほとんどない。やたらと達観していた。その女性に向けて、いつまでも変化や成長を続けなければいけませんよ、と言う人はいないだろう。…私たちはいつから、変化や成長をしなくても、何にも言われずに済むようになるのだろう。(P80)

○産んだ人と、育てる人と、産まない人、育てない人がいる。…経験している人たちだけの語りだけでは…一方向からの声しか届かないのではないかという思いがある。…いつ産んでもいいでしょう、別に産まなくてもいいでしょう、とにかく、決めるのはそれぞれであるべきでしょう、という社会を作るためには、子どものいない人も、産むことに対して積極的に関与する必要がある。…経験をしたならば分かち合える…というのは、開放的に見えて閉鎖的だ。(P108)

○自分に見えている世界だけから導かれた理解…だけで理解が手早く済んでしまうと、単に理想論以外を受け付けない頭になってしまう。…とてもうまくいっている家庭と、そうでない家庭がある。うまくいっている家庭の男性が「お母さん」(それは実母だったり妻だったり)の存在を理想的な存在として語る…そうでない人の語りよりも優先される…力強く使われる「お母さん」に身構える。冷静に直視すると、単なる男の理屈である場合が多いのだ。(P152)

○多様性を認めるというのは、これまで認められてこなかった人たちの考え方を知って受け止めることはもちろんだが、どんな状況にある人でもそのあり方を否定しない、未熟だと決めつけないという態度も含まれる。…あるべき家族の形が保てなくなってきているならば、保てなくなってきた原因を探るだけでなく、あるべき家族の形なんてものはあるのか、あるのだとしたら、なぜそれは存在しているのか、それ以外のあり方ではいけないのか、そっちから議論したい。(P221)