とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

当事者は嘘をつく

 修復的司法の研究者である筆者による回顧録と言えばいいだろうか。修復的司法とは、被害者と加害者の対話を中心に問題解決を図る取り組みのことである。これにより、被害者の精神的ダメージからの回復と、加害者の再犯抑止の効果があるという。本書は別に修復的司法を説明するものではない。自ら性暴力被害者である筆者は、被害者としての「当事者」であり、その精神的ダメージからの回復を模索し、精神科医などの「支援者」に戸惑い、時に怒り、加害者に対する「赦し」を試みるなどして挫折もし、そして修復的司法の「研究者」となる。

 さらに、性暴力を題材とした博士論文と著作の出版の後、水俣地域を対象に、修復的正義について研究をしている。最近は宮崎駿作品を題材に論考を発表しているようだ。これらの論考も興味深いが、本書はあくまで自身の性暴力被害を受けて以降の半生を綴りつつ、「当事者」と「支援者」、そして「研究者」の関係についての論考を重ねていく。

 もちろん人は誰でも自分の人生の「当事者」である。が、自ら語る自分は、常に裸のままの自分ではなく、自分がこうありたいと望み、こうであるに違いないと思う自分である。だからそれは「嘘」なのかもしれない。でも、本書は「当事者は嘘をつく」ことを中心に検討を重ねるものではない。嘘をつく「当事者」を前に、研究者としていかに対応すべきかを考えている。そして本書では、こうした問題に悩む自分をさらけ出すことにより、若手研究者にエールを送る。

 本書はけっこう読みやすい。今後、修復的司法に関してもわかりやすい本を出してくれるだろうか。その種の本が出版されたら、その時はまた読んでみようか。

 

 

○私の人生は、被害以降にまったく別のものになってしまったと、私は感じている。18歳までの「私」と、今の「私」は切り離され、別人のようだ。/性暴力によって私が失ったものは、純潔でも無垢さでもない。かつてあったはずの「私」である。それ以降の私は、性暴力の体験を源泉にして生み出されてきた。性暴力の記憶なしに、今の私は存在し得ない。/だからこそ、私は自分の記憶が誤りであることを恐怖する。性暴力被害の記憶が嘘であることは、今ここにいる「私」の存在の否定であるのだ。(P28)

自助グループの活動は、「自分の経験を語ることで、自己を形作る」というよりは、「他者の語りを、自己の経験に重ねていく」ことに近い。…自助グループでは積極的に共振し、同一化していくなかで、孤独だった自己から解放されていった。…私は自助グループの活動を通じて「自己物語」を形作ると同時に、「みんなの性暴力の物語」の類型の構築に協力していたと、今は考えている。それは「回復の物語」である。(P55)

○この「回復の物語」は私の事実を述べているにすぎない。だが、当時の私にとってこの物語は、願望であり、懐にしまったお守りだった。/注意してほしいことは、「真実」より先に「物語」がここにはあったことだ。…私の身に起きたことの事実の羅列ではなく、ほかの被害者の語りを織り交ぜた、未来に向かって歩き出せるような夢物語を胸にしまって生きてきた。だから、私が自分の経験を語ろうとするとき、いつも混ざりものが入っている。(P69)

○「あなたにはわからない」もまた、「わかってほしい」の裏返しで、相手に対する期待である。「当事者」は、「当事者でない人」に対する、その期待を捨てていくことで、生き延びていくのかもしれない。…理屈としては理解できる。…こうして諦めながらも前に進み続ける、「当事者としての私(たち)」の歩んだ道は、「当事者でない誰か」によって、また発見されるかもしれない。…私という固有の存在がもう消えてなくなり、大勢と混じり合った「当事者の混合物」になっていたとしても、それを記録していてもらえるかもしれない。(P180)