とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

諦念後☆

 小田嶋隆と言えば時事コラムが有名だったが、昨年の今頃亡くなって以降、もちろん新規のコラムは書かれないし、昔のコラムを読み返そうという気にもなれない。あれほど批判していた安倍元総理も死んでしまった。しかし本書はこれらの時事コラムとは違う。還暦を過ぎ、老年に至った筆者が、定年後の男の過ごし方について、身をもって体験しつつ綴ったルポルタージュ的コラムだ。

 そしてこれまで何度も書いたとおり、筆者と私は同い年、同学年だ。「そば打ち」「ギター」「スポーツジム」「断捨離」「終活」「同窓会」「麻雀」「鎌倉彫」「選挙」「盆栽」そして「大学講師」。もちろん全てが当てはまるわけではないが、私も筆者と同様、孤立型の人間だ。書かれている内容と気持ちはよくわかる。中でも「大学講師」については、全くそのとおり。費やす時間に比してあまりに報酬は少ないが、まあ時間潰しにはなる。そして何となくやりがいも感じてしまう。父親も喜んでいるだろう。それが一番の親孝行かもしれない。

 でも、小田嶋隆は亡くなってしまった。もうこの種のコラムを読むことはできない。この連載も、脳梗塞による入院で中断し、復帰して、死を考えるコラムで閉じる。でも「死」をそれほど恐れてはいない。「死」も生きていくなかであれこれ訪れる様々なイベントの一つとして受け入れている。そのことも含めて、同感する。最後に奥様が「あとがきにかえて」小文を寄せている。楽しい。楽しく死んでいけたことが何よりだと思った。

 

 

○孤独でサエない学生だけが、その鬱屈をギターの練習にぶつけることで、結果として、Fのコードを克服し…素人ギタリスト段階に到達することを得たのである。/私はそういう学生ではなかった。…凡庸で甘ったれた次男坊だった。…なにしろ根気がない。そしてなにより孤独耐性がゼロだからだ。/しかし…私がこれまで…入門編のところで挫折し去った原因は、結局のところ、自腹でギターを買っていなかったところに求められる。(P21)

○ヒマつぶしに窮した男の振る舞い方は、大まかに言って二通りに分かれる。ひとつはコミュニケーション方向に、もう一方は引きこもり方向にだ。…人は生まれつき、どちらか一方の性質を与えられて生まれてくる。…私自身は孤立型の人間だ。/必要に応じて人付き合いはするが…ヒマを持て余した場合は、ひたすらひとりでできる作業に没頭することになる。/手を動かしていれば、それなりに時間はつぶれる。気分も安定する。(P104)

○非常勤講師の仕事を引き受けることになった時…名刺に肩書きは入れなかった。…ということはつまり、私は、安く働いているこの仕事の数少ないメリットに見える「肩書き」を、まるで生かしていないことになる。そのうえ、自慢しようとしてやめたということは、私がこの仕事の依頼が来たことを喜んでいたということである。/なんという、バカな虚栄心だろう。/でもまあ、死んだ親父は飛び上がって喜んでくれるはずだ。…それだけで十分だ。(P156)

○昭和の先輩たちは…いつも「カネ」のために働くことを賛美していた。…カネのために働いている限り、大きな間違いはない。/カネが稼げれば万々歳だし、職場で多少面倒くさいことがあっても、カネのためならなんとか耐えられる。/一方、生きがいなんぞのために働いている人間は、どこまでも搾取される。「生きがい搾取」…というのは、ちょっと前までは…若者をたぶらかす…言葉だったが、これから先は「定年後の生きがい」みたいな常套句を口にする老人をハメ込むためのメソッドになるはずだ。(P196)