とんま天狗は雲の上

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科学と資本主義の未来

 2019年に出版された「人口減少社会のデザイン」、2021年に出版された「無と意識の人類史」に続く3部作として執筆したと言う。前2冊も難解、というか、広井哲学はどこへ向かうのかと思ったが、集大成の本書では、さらに整理され、科学哲学史としての筆者の構想を展開している。

 科学の未来を考える中で、これまで経済発展と手を携え、進められてきた科学が、資源的・環境的限界に直面する中で、新たな展開、「幸福のための科学」へと向かいつつある。そして、自然に対して客観的な視点から研究が進められる中で、「物質」や「力」、「エネルギー」から「情報」へと進み、今後さらに「生命」そのものへと科学探求の領域が変化しつつある。「生命」とはすなわち「幸福」を科学の対象としようとすることである。

 こうした新たな転換期を迎えた現在、「生産性」に対する考え方の転換、市場経済に対する政府介入のあり方の進化、そして「高齢化・社会保障」と「環境」を同じ「未来世代への責任」として一体の分野として政策を進めようという提言。それらが興味深く心に響いた。

 今、日本は大きな転換期にある。いや、世界も同様だ。世界は、人類史はこの大きな変化を乗り越え、新たな未来に進むことができるだろうか。可能性はある。しかし転換に伴う痛みは一部の者にとっては、耐え難いほどの大きなものとなろう。しかし変わらなければならない。それこそが人類の未来を大きく開くものだということを信じて。いや、既に自明のことではないだろうか。

 

 

○約2500年前の時代に、ちょうど今と同じように「幸福」…と政策や政治の関係が論じられている…、この時代は、約1万年前に生じていた農耕文明が飽和し、森林の枯渇や土壌の浸食なども生じる中で、ある種の資源的・環境的な限界に直面していた時代だった。そうしたそうした状況の中で、それまでの”物質的生産の量的拡大”という方向ではなく、むしろ文化的な発展や精神的な豊かさに大きく舵を切ろうとしていた…これは現在ときわめてよく似た時代状況である。(P99)

○これまでの「生産性」の考え方は、イコール「労働生産性」ということであり、つまり“少ない労働力で多くの生産を上げる”ことに価値が置かれていた。…しかし…現在は…自然資源の「有限性」や、環境への負荷が問題となっている。したがって、「生産性」をめぐる考え方を大きく変え、それを「労働生産性」から「環境効率性」ないし「資源生産性」に転換していくことが求められているのだ。環境効率性ないし資源生産性とは、“資源消費や環境負荷をできるだけ抑え、むしろ人は積極的に使う”という考え方である。(P131)

市場経済に対する政府の介入…がより強いものとなり、しかもそれは「事後的な救済」から「事前的・予防的な対応」…へと進化してきた…。このベクトルをさらに進めるとすれば…それは…以下のような対応と考えられる。/①「人生前半の社会保障」……教育を含む若い世代への手厚い支援/②「ストックの社会保障と公共的管理」……住宅・土地等の資産に関する保証や再分配/③「コミュニティ経済」……コミュニティそのものの活性化と経済循環(P189)

○近代科学は(自然に対して)「独立した、中立的な個人」…を前提に立て、…客観的な観察者の視点から自然あるいは世界を把握しようとしてきた。その場合、物理的世界の理解に当たってまず「物質」や「力」、「エネルギー」といった概念が立てられたが、それが次第に生命現象の解明に及ぶ中で…「情報」という概念が導入されることになった。…しかしそれでもなお十分に解明できない、いわば生命現象の核にあたる領域へと探求が進むことになりつつあるのが現在であり、…それらを通じて、いわば「生命そのもの」と呼ぶべきテーマが浮上することになる。(P292)

○私は…「高齢化・社会保障」をめぐるテーマと「環境」をめぐるテーマを一つの大きな枠組みでとらえ議論していくことが重要と考えている。/つまり両者は一見異質な話題に見えて、いずれも「持続可能性」そして「未来世代への責任」という点が問われていることにおいて実は共通している。(P325)