とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ジダン研究☆

 体調を崩して、娘に図書館へ行ってもらった。借りてきた本を見てびっくりした。厚い! 815ページもある。六法全書か。でも、ことサッカーのことであれば、それほど苦労せずに読める。1週間で読み終わった。

 冒頭の「はじめに」にこう書かれている。

○これは、ジダン論でもなければ、ジダン伝でもない。あるいは、ジダンをめぐる小説でもない。ジダンを「研究」するという、選択肢のなかでももっとも地味な作業の結果にすぎない。ただ、「研究」である以上、私の個人的な意見はできる限り制限している。事実を提示し、それをめぐってどのような議論が起こり、決着したのか―まずそれを述べている。そのうえで幾分かの解釈を付す。(P9)

 そう、ジダン研究の書。ジダンと言えば、移民や海外県出身の選手が多くいた当時のフランス代表の中心として、マルセイユ・ルーレットなどの華麗な技術でチームを引っ張り、ワールドカップのフランス大会で決勝戦では2発のヘディングシュートを決めて、初優勝を遂げた。しかし、8年後のドイツ大会決勝では、相手選手へのヘッドバットで退場処分を受けた。と同時に、選手を引退し、しかしその後、レアル・マドリードの監督に就任した。普通のサッカーファンとしては、その程度の認識か。

 ジダンアルジェリア移民ということは知っていても、アルジェリアの中でもカビリーと言われる特別な地域の出身だということまでは知らなかった。W杯でのヘッドバットによる退場は知っていても、その後の顛末、数日後のジダンの記者会見などは知らなかった。レアルの監督としてCLに優勝したことは知っていても、3連覇を達成したことまでは知らなかったし、いったん辞任後、また再任され、しかしまたも3年で辞任したということまでは知らなかった。そこまで追いかけてはいなかった。

 本書では、父親のフランス移住から、ジダンの誕生、サッカー選手としてのデビュー、結婚、ASカンブからボルドーユヴェントス、そしてレアル・マドリードに至るまで、さらには3回のW杯まで、その歴史を追うが、なかでもやはりW杯でのヘッドバット事件が分量としては最も多い。しかし、冒頭の引用に書かれていたように、筆者の意見は少なく、もっぱらこの事件に対するさまざまな分野からの言論を紹介する。それは、メディア論もあれば、神話学もあり、心理学、社会学、さらには文学者、教育学者、イスラム学者、そして映画まで、さまざまな視点に及ぶ。

 そして、この件に関するジダンの行動や言動を検討する前段として、アルジェリア独立戦争や、その際に結成されたサッカーチームの活動、カビリーの生活、さらにJSカビリーに加えて、ConIFA独立サッカー連盟)に参加した非公式なカビリーのサッカーチームにまで考察は及ぶ。この件に対する筆者の意見は少ないが、ジダンの2度のレアルでの監督就任と辞任について、監督ジダンに対するさまざまな批判に対して、「反復の人」ジダンを援護する筆者の筆致は興味深い。

 「ジダン研究」というタイトルどおり、その当時だけでなく、現在の視点からも当時のジダン、そして現在に続くジダンを「研究」するその視点は熱い。そして楽しい。

 最後に蛇足だが、「おわりに」に、「フットボール批評」の休刊のことが書かれていた。えっ、フットボール批評って休刊したの! 調べてみると、確かに昨年3月の第39号で休刊していた。私が購読していたのは第37号(https://tonma.hatenablog.com/entry/2022/09/23/114841)まで。私の購読中止がまさか休刊につながったということはないだろうが、やはり少し寂しい。気になって発行元であるカンゼンを確認してみると、フットボール批評はオンライン版でまだまだ継続していた。そもそも本書がカンゼンから発行されているし、最近は「下剋上球児」が当たって、業績も伸びているだろう。それから、サッカー本大賞はどうなっているかと調べたら、2023年は開催されたが、2024年はどうなんだろう? ぜひ続けてほしい。でもまずは、2023年の大賞「競争闘争理論」を読んでみようかな。やはりサッカー本は楽しい。

 

ジダン研究

ジダン研究

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○「内面世界」という言葉は、ジダンの内側を語りたいという欲望に忠実である限りにおいて、魅力的な語彙である。私たちにはジダンの「内面世界」が窺い知れない。彼の思考法や行動規範、あるいは判断基準が私たちにはいま一つ詳らかでない。そのことがジダンへのアプローチを困難にしていると同時に、私たちを惹きつけてやまないのである。(P77)

○最初のシーズンは出場試合こそ多くないものの…幕を閉じる。このとき、ちょっとした出来事が起こっている。…その地方によくある、親善サッカー大会は、場合によって小競り合いや乱闘も起こるような大会で、愉し気ではあるが、荒っぽい空気も漂った。…ジダンはこの時点ですでに幾度か、試合中に暴力をふるって退場していた。…ジダンヘッドバットは、ごく若い頃から、暴力の発露としてあったという事実。(P88)

○英雄とは言葉を発しない者の謂れである。…ジダンは何も語っていない。…ジダンは巨大な空虚となり、周りでは強烈な風が吹いているにもかかわらず、本人はいつまでも空無のまま推移するという事態は、かつて、幾度も私たちは体験してきたこととも言える。何も語らない。語れないからこそ、取り巻く側は何倍にもその言葉を多く産出して、中心にある空白を無意味な言葉で埋めようとする。(P203)

○その夜、FLNのチームは、ヨーロッパ遠征で最高の試合をやった。…両チームは喝采を浴びた。スペクタクルは熱狂のうちに終わった。…卓越したパフォーマンスは同時に外交でもあった。ルーマニア国民は皆、まさにその瞬間、アルジェリア独立戦争が行われていることを知ることになったからである。彼らが望んでいたこと、それが、サッカーを通じて独立をアピールする「外交官」や「大使」の役割を演じることだったとすれば、このとき独立のドリブラーたちは、十全にその仕事を果たしたことになる。(P320)

○侮蔑が繰り返され、個人攻撃され、イタリア人の言葉は下品だった。…最終的にイタリアが世界チャンピオンになった。PK戦の果てだった。私たちがこの夜観たのは、私たちが愛しているサッカーではなかった。…私は眼に涙をためて、ヤジッドの話を聞いていた。彼の話すことを理解した。私は、年長者への敬意のなかで彼を育てた。…節制の価値と名誉の感覚を彼に教えた。…ヤジッドは試合には負けたが、名誉を失わなかった。(P525)

アルジェリアの国内リーグで活躍するJSカビリーのことを考え続けていると、気になるチームがもう一つ浮かんでくる。それが、ConIFA独立サッカー連盟)に参加している「カビリー」のチーム。…アルジェリア政府から目をつけられ、「脅し」まで受けているチームを表立って擁護したり支援したりすることは、ジネディーヌ・ジダンの立場からは難しいだろう。…だが、カビリーの文化から離れることなく生きてきたジダン家の人々にとって、どのような形であれ、カビリーの名を冠するチームは、意識の外へ追いやることのできない存在ではなかったか。(P661)

○リーガとCLの二冠を達成した翌年、そのチームを大胆に変えることなど、できるのか。変えて批判を浴びるよりも、変えずに臆病だとの誹りを受けるほうを選ぶ、というのは、戦略的にあり得る選択だとは言えないか。いや、そんなことよりも、ジダンという存在が何より反復を生きている…・ジダンは反復の人である。カビリーの文化やスマイル・ジダンの言葉を、自分なりの仕方で反復し、選手として受容した技術や理論を、監督として反復することが、ジダンという存在の謂ならば、反復を批判することそのものが無意味である。(P724)